Hail Hail
第3章 あるローバーズの選手(原題:A Rover) その2
コートブリッジ(アルビオンローバーズはコートブリッジが本拠地)に移籍してフットボールをプレイすることは、彼にとって新しい環境で目覚ましい躍進、という意味ではなかった。(距離にして約10kmしか離れていない)
ここは依然として北ラナークシャーに位置して、地域の構造はお互いに似通っていた。彼の故郷のバーンバンクとは規模が違うのにもかかわらず同じセクタリアンの感情が渦巻いていた。
プロテスタント、カソリックのアイルランド移民が宗教上分裂し、製鉄や鉄鋼産業で働き、地域内の別の場所に敷居を作ってそれぞれの飛び地を作り、”オレンジメン”=プロテスタント至上主義者、と”シン・フェイン信奉者”=アイルランド共和國主義者、シン・フェインはアイルランドの第1政党。といういつもの容疑者たち、を生み出していた。
コートブリッジは特にスコットランドのセクタリアニズムによる抗争の縮図のような街だった。
ローバーズはすべてこの抗争による被害を被っていた。
グラスゴーにグランドがある、オールドファームの拡大地域として影響される場所だったコートブリッジは、その頃でさえ、短時間でグラスゴーまで行けてしまうので、その頃、コートブリッジは実質上44,000人の人口にいたのにもかかわらず、そのうちの中で応援してくれるある程度の割合を地域クラブが望むことは不可能だった。
もちろん、彼らは決してサポートを得られることはできなかった。そしてステインはクリフトンヒルを通行する人が、彼らはステインを後に敬意を払うのだが、ローバーズと同じぐらいセルティックを応援していることに気がついた。
この地域でパークヘッドのクラブ(セルティック)が、持つ引力の強さは、ステインが後にプレイした、コロネーションカップ(エリザベス2世女王の戴冠式を記念して行われたフットボールの大会)の決勝、ハンプデンパークで行われたマンチェスターユナイテッド戦に、街の西のはずれにある有名なパブ、”フィル・コールズ”から、57台ものダブルデッカーバスがセルティックを応援する地元の人を乗せて向かったことからもしめしている。
一方小さくて魅力に乏しいながらも実際に建っているクリフトンヒルスタジアム周辺でのレンジャーズのサポートは、
フェニックスの”暗く悪魔のような粉砕機”と呼ばれる南方面の丘や、ウィフレットのクリフトン鉄工所、街の中にある風土的に不寛容によってどちらかのサポーターに傷が付いていない中間地帯か、もしくは、”希望のないロマンチスト”と誇りを持って”おつむが弱い”と陰口を言われても気にしない人たちだった。(=圧倒的にセルティックサポートの街にいる少数派だったので)
ローバーズのカラーは青だった。それはステインの父親を喜ばせた。普通の一般社会では色の幅はそれほど問題ではないが、後年にウェバー・リーズが亡くなった時、ブルーは政治的にちょっと無神経だと感じる人々によって、平和的な努力によって、チームカラーは赤と黄色に変更された。
それで、ビックスのあるブランタイアでは、ステインは同じ色のジャージを身につけていた。ただひとつ違ったのは、ビックスでプレイした時は古いシステムの左サイドハーフだった。しかし8年間プレイしたローバーズでは、全ての試合をセンターハーフ(センターバック)としてプレイした。
そしてローバーズでセンターハーフとしてプレイすることで彼のテクニックやパーソナリティが進化した。
ある彼が加入して間もない頃のレンジャーズとの試合で、ステインは、背が高くパワフルなフォワードでブロックの壁でできているような、ジミー・スミスにちんちんにされてしまった。
ステインはまさに手痛いしっぺ返しをくらった。
実際に、彼はスミスに深いタックルをかましに行ったのだが、かわされてぴしゃりと言われた。
”お前はまだ子供だ、分相応をわきまえろ!”
他の選手であれば、怖気付いていたのかもしれない。
つまり、アイブロックスの選手たちはいつも相手選手をたじろがせるような特別なオーラをまとってると考えられたのだが、ステイン、彼は対するチームにとって(レンジャーズ)比較的厳しい立場に(ローバーズの色も青)いないジャージを身につけてプレイしていたのにもかかわらず、ナマ肉を与えられた若獅子のように優しい態度で、警告を受け取った。(警告されても平気な顔で受け取った)
ステインはスミスに再度、音を立ててぶつかった、今度はボールは空中にあり、お互いイーブンな位置にいた。ステインは後述していたが、彼は何が来るのかわかっていたが、避けることはできなかったししなかった。
スミスはあたかも他に誰もいないかのようにボールに向けて一直線にジャンプし、ステインの顔面へヘッドバットをかました。
彼の鼻はへし折られた。ボズウェル炭鉱の地下の仕事の後(このころは炭鉱とフットボール掛け持ちだった)、ステインはあたかもそれが勲章であるかのように、顔を上に向け、おられた鼻を示して、彼らの周りに集まった全員、がレンジャーズファンだったが、にこの出来事のことを自慢していた。
ピッチ上での彼のひたむきさは、少年時代のクラブに対する同情の付け入る余地など微塵もないことを表していた。
アダム・マクリーン、ローバーズのセンターフォワードでプレイしていた彼は、ステインのアイブロックスへの愛情は確かなものだったと答えた。
”レンジャーズの試合結果が試合後ピッチから戻ってきて最優先で彼が知りたいことだった。彼はローバーズでプレイしていた時も心からレンジャーズファンだったよ。ただ、彼がレンジャーズに対してどうプレイするのかには全く影響しなかったけどね。
実際彼は大試合で活躍したんだ、オールドファームと対戦する時の彼は優れた選手だった。しかし、スタジアムから離れると彼はいつもレンジャーズはどうだったのか知りたがっていたね。”
彼がセルティックの監督として最高潮だった時、彼が、”ダマスカスの改心=宗旨替え(プロテスタント→カソリック)”を行う前だったがセルティックパークを出てプロテスタントの精神的家であるゴヴァン(アイブロックスの近くの地域、プロテスタントの非常に強いエリア)の家に戻ることに、レンジャーズコミュニティ出身という背景の雑音があった。
もし彼がその時実証しているなら、1940年代、親と環境の影響を強く与えていた時でも、彼がユニフォームを頭から通してきた時には、伝統的な忠誠心に支配されることはなかった。この考えは、後年にステインはパークヘッドで古い信念と新しい力の間での風潮に苦しめられていた、という見方は、滑稽だった。
その3へ続く。
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