Hail Hail
第3章 あるローバーズの選手(原題:A Rover) その1
あらすじ:ブランタイアビクトリアから、ほど近いアルビオンローバーズに移籍したステイン。”スコットランドフットボールの巨人”のデビュー戦は、決してファンやメディアの記憶に残るものではなかったが、しっかりとその足跡を残していた。しかも相手は運命のクラブとも言えるセルティック。当時のローバーズの監督ウェバー・リーズに見出されローバーズでプレイとともにその類まれなるキャプテンシーを磨いていくのであった。
1942年の11月14日、コートブリッジ鉄道駅の駅員ウィリアム・ウォーカーは、アルビオンローバーズへの人生をかけた愛情を始めた(クラブに対するサポート)。セルティックが敬愛するアルビオンローバーズのホーム、クリフトンヒルにやってきて試合をしたのを見るために行列に並んだ。
その日は、どんよりとした空で寒い日だった。気候的に1940年代初頭の厳しい時代にそぐうような、突風が産業の街の通りを吹き抜けていた。
その時からウィリアムはスタジアムのテラス(ゴール裏立ち見席)に通うようになっていた。この日は10分程度遅れてしまったのだが、彼は、観客から2度の大歓声をすでに聞いていた。セルティックが2点先制したのである。
さらにその後しばらくしないうちにセルティックが3点目を上げたので、彼はこの午後は、しかも彼は戦時下の光を見出したような勝ち誇ったセルティックサポーターに囲まれて打ちのめされた気分で過ごすことになるだろうと感じた。
その日は、政府の燃料広報から、家庭の主婦向けに家庭内燃費の重要性についての見解が広報され、できるだけ隣人や友人と燃やしている火をシェアすることを推奨した日でもあった。
反対側の視点で見ると大好きなチームが勝利するのはちょうど効果的に腹の脂肪を燃やすことができた。
しかし、ウィリアムは石炭の火を燃やしている(歓喜で興奮している)セルティックサポーターと一緒に同じ気分を分かち合う気分にはならなかった。
彼の口元で気分が沈んでいる情け容赦ない心の炎は、この国が次の日にエルアラメインでの戦闘に勝利したことを教会の鐘を鳴らすことで祝うだろうという考えに消されてしまった。
さらに困惑させることに、中央の守備(センターバック)には、ひょろっとした背格好の姿の選手がいたことだった。
ウィリアムは彼を見るのは初めてだった。
細い姿は、単純にプレスの報道では”ジュニアの選手”として登録されていた。
英国フットボール史上最も輝かしいキャリアの一つがこのとき始まったとは、余裕の勝利でパークヘッド(セルティックパーク)へ戻るであろう試合に、ウィリアムもセルティックのサポーターもそこにいた誰も、気付くことはなかった。
試合終了時にはとんでもないローバーズの反撃により、4-4というありえないスコアを目撃したのだが、試合終了後、グラウンドの外で、ある若い無名の誰も知られていないセンターハーフの選手がサインをしていた。”ジョック・ステイン”と。
ウィリアムは、”俺はステインがローバーズでプレイしたすべての試合を実際見てきたよ。正直この試合ではまだ彼は俺のことを認知していなかったさ、この試合自体、ステインがデビューしたことをそれほど認知されていなかったんだ。
何年も後になって、ウィリーミラーやジミーディレイニー、ボビーホッグなどそうそうたるメンツを誇るリーグでも最強のうちの一つであるセルティック戦が、彼のデビュー戦だったことを質問者に対して認めたんだけど、試合のスコア以外は彼はほとんど覚えていなかったんだ。
サンデーポスト紙によると、ローバーズは、荒削りでひょろっとしたジュニアのセンターハーフを試したことで、彼にとっては重荷なジョンマクフェイルと対峙したことで2ゴールをセルティックに献上した。と記載されていた。
この国に新たなスターが誕生したことを知らせるには正確な報道ではなかった。それよりも、より少ない現金が口座に加えられたことを示す、預金通帳へのエントリーのようだった。
のちに、この記事を書いた記者は、ステインがフットボールの巨人になった後、”荒削りな”とか”ひょろっとした”という言葉をなんとなく自分で読み返して、ハリウッドのスカウトが、アステアと呼ばれる若者(=フレッドアステア、当時アメリカを代表したミュージカルスター)に”演技が下手、ちょっとはげてて、踊りもイマイチ”と意見して去らせたのと同様にに扱っていたかもしれないと気づくだろう。
しかし、ステインがしていたことはローバーズに貢献していた。下位の順位の逆境に打ち勝ち、たとえ彼が”きらめく次世代の輝き”よりもむしろ、”望みのない原因”という意味での恐ろしい、”ジュニア”というニックネームの下に隠れていている単なる練習生だったとしても、彼は、自分を卑下することなく、ローバーズのマネジメントが覇気を奪うような考え方をしても気にしなかった。
彼はいまだローバーズと契約しておらず、どうなるかも不透明だが、サンデーポスト紙が見出しに、”セルティックはフィドル(バイオリン、アイリッシュフォークで使われる)を弾き、ローバーズは燃えた”と報道した試合を楽しんでいた。
1942年のローバーズの監督は世話役的存在のウェバー・リーズだった。彼はクラブを掌握してステインはボブ・ケリーの元のセルティックに比べてより壮大な経験をしていた。
リーズはこの若い才能に目につけたことで名声を得た。ステインを2週間ほど早くからトレーニングに参加させ、セルティックとの試合で彼の利点を確信した。
ローバーズは次のリーグでの試合で1-4とコテンパンにされたが、リーズがステインとすぐにサインを交わすことを思いとどまることはなかった。
セルティックとのデビュー戦の3週間後、エアドリー、コートブリッジアドバタイザー紙によると、”12月3日の木曜日夕方、ウェバー・リーズ監督はブランタイアビクトリア所属のジョン・ステイン(ステインのファーストネームはジョン)と契約を結んだ。そして今日のホームクリフトンヒルで行われるセントミレン戦のメンバー入りした。とあった。
その2へ続く。
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