Hail Hail
第7章 東の輝く星 (原題:A Star in The East) その5
1961年4月22日、113,328人大観衆の前で、最初の試合は行われたが記憶に残るものではなかった。
試合を通じての様相は明らかにセルティックが攻撃的でファイファー(ダンファームリン)はそれに抗うというものだった。
ゴールキーパーのエディ・コナキャンは、4日後の再試合でヒーローとなる前段階のセーブを幾つか決めた。
一方セルティックのクレランドは中盤を制圧し、前線にボールを供給し続けたが、前線にいるウィリー・ファーニーとジョン・ヒューズは、ジグザグにドリブルするセルティックのサポートにイラつき、フィニッシュを欠いてチャンスをフイにしていた。
試合が進むにつれダンファームリンは徐々にボール保持が多くなったが、マッケイとマクニール、ケネディのセルティック守備陣は、非常に落ち着いていた。
試合の中でセルティックの得たチャンスは明確だった。しかし、ダンファームリンのディフェンスは決して屈するようには見えなかった。
センターハーフのジャッキー・ウィリアムソンはハーフタイム直前に大きな怪我を被っても試合終了12分前までいたそうにビッコを引きながらもしばらく戦い続けた。そして彼が退場した後もダンファームリンのディフェンスは固かった。
ダンファームリンがセルティックに決定的なピンチを与えたのは、試合終了間際だった。
ジョージ・ピーブルズが、いきなりゴールから30ヤードの所から、セルティックGK、フランク・ハッフィーめがけてシュートを放った。
説明のつかないことが、セルティックのキーパーに起こった。彼がボールをキャッチしようとしたところボールは手をすり抜け、ゴールラインへと飛んでいき、危うくダンファームリンの勝利を引き寄せそうになったが、フルバックのジム・ケネディーがなんとかボールをかき出してコーナーキックに逃れた。
この一つの出来事からでも、セルティックは自分たちのゴールキーパーが、この試合の1週間前にスコットランド代表としてプレイした時に、3-9という大差でハンプデンパークでのイングランド戦にぼろ負けした責任を負わされ、未だトラウマに悩まされ、カウンセリングと休息を必要としていることに気づかされたにちがいない。
実際、セルティックの采配はリプレイでも何も行われず、ファイフのクラブにとってボーナスとなったことを証明した。
初戦での無得点での引き分けは、セルティックを依然優勝の本命として扱い、2度目のうっかりの失態はありえないだろうと予想していた。
しかしステインは、初戦でどんな威圧的な感情をも対処できていることと、試合前のセルティックへの対処が明らかにチーム内に浸透していたことを知っていた。
天気が段々怪しくなってきた4月26日、それに呼応して観客も87,866人だった。
西から殴りつける雨が顔を濡らした。
ハンプデンパークは灰色がかって陰気な感じが漂っていた。試合自体は、潤滑さを欠き、消耗戦と成っていた。
週半ばの再試合はあたかも中古品のようで、土曜日の状況と同じような華やかさと盛り上がりを引き起こすことはなかった。
ただし、もちろん、たとえ面白みのないパフォーマンスでさえ、争われているカップを獲得するためであれば努力する価値はあった。
スタジアムの多数を占める大勢のセルティックサポーターを前にしてプレイする不利とともに、ステインは、自分たちの退治するセルティックの選手たちが全て特別な選手たちではないことを考える必要があると盛んに強調し続けた。
ステインは、センターハーフのポジションでプレイしていたジョージ・ミラーに替えて、ジョージ・スウィーニーを入れて彼を左サイドハーフに入れ、セルティックのフィールドで幅を利かせていたファーニーの動きを封じにかかった。
これは、報復のマンマークだった。
ダンファームリンゴールを守るコナキャンは、試合序盤で幾つかの良いセーブを見せたが、試合終了20分前からのパフォーマンスは群を抜いていた。
67分に、ダンファームリンの22歳、デイブ・トンプソンが、左にいたピーブルズへパスを出し、自分はペナルティエリア内へ走り込んで、カーブをかけて折り返された低いボールに合わせてゴールを決めた。
ゴール後のハンプデンパークで起こった集中攻撃は今まで見たこともないようなものだった。
セルティックにとってはシュートの集中砲火をコナキャンに浴びせかけたのにもかかわらず、ゴールを割れなかったことは、試合が彼らの手からスルリとこぼれ落ちていくことに気づかされていた。
コナキャンはあたかも決壊したダムの前に立っているかのようにゴール前に立ち続けた。
ゴールラインに体ごと投げ出し、手のひら、指先ではじき出し、ボールを抑えこみ、特筆すべきは、クレランドからの25ヤードの距離から矢のように放たれ、選手たちの間をすりぬけてきたシュートを奇跡的にセーブしたプレイだった。
その直後、ジョン・ヒューズが一人で抜け出し、キーパーと1対1になったが、明らかに信じられないことに、コナキャンはその身を投げ出し、シュートをサイドにはじき出した。
このセーブが、試合の流れを本当にひっくり返した。
まさに、あたかも、ドラマのシナリオの一部が、神の介入による勇気への報酬を見るかのように、試合終了2分前にダンファームリンに駄目押しともなる2点目が入った。
アレックス・スミスが、ボールを中央にいるパワフルなチャーリー・ディクソンへ送った。パスは力を入れすぎて、間違いなくキーパーへのボールだったが、そうはならなかった。
セルティックのGKハッフィーはボールに向かってきたディクソンに目を取られ、ハンブルした。彼はボールを足元に落としただけではなく後逸してしまい、そのままゴールへ走り込んでいたディクソンに簡単に無人のゴールにボールを流し込まれた。
ダンファームリンは、彼らの76年の歴史の中で、第76回目に行われたスコティッシュカップを勝ち取った。
白いコートをまとった男が試合終了の笛とともにピッチの中に駆け出し、新しい地元の英雄となった選手たちと抱き合った。そして一夜にしてステインはスコットランド中で有名となった。
90分間でステインの立場は変化した。
当時、スコットランドフットボール協会の会長となっていたボブ・ケリーは、彼の妻がダンファームリンのキャプテンのロン・ミラーにカップを手渡した、ハンプデンパークのプレゼンテーションエリアにいた。
相変わらず、威厳を与えられているケリーは、試合を通して自分の内側をひどく傷つけられたことを経験したかもしれないが、彼がセルティックのリザーブとして使えるだろうとラネリーから連れてきた平凡な選手が、実は生まれながらにして勝者だったということに注意できず、今逃れられない事実となった。
ケリーは、スコティッシュデイリーエキスプレス紙に、彼独特の慈悲深い表現で、「友人がカップを得たのだから、損失などではない」と語った。
ステインは、優勝祝賀会の中に熱心に参加していた。
この短い期間の間でステインがゴールキーパーにハグをしたことは今までになかったと言うぐらい、決勝戦のすぐ後に、炭鉱での仕事を辞めたエディー・コナキャンにハグした。(全般的に、ステインはゴールキーパーに対して、アレルギーを持っていた。彼とは違う感情の発露を持っているようだったからだ。)
スコティッシュデイリーエキスプレス紙はでは、翌朝の見出しにその後、新聞社の植字工の我慢の必要な年一の行事となり、記者たちの画一的な決まり文句となったぐらいに、魅力的な単語の頭文字で韻をふむ、
「Stein’s Stunners」(ステインの衝撃を与える者たち)が掲載された。
そして、これからステインは選手たちを輸出業(ヨーロッパの戦い)に入れようとしていた。
第8章へ続く