Hail Hail

 

第7章  東の輝く星  (原題:A Star in The East) その4

 

ステインは、ダンファームリンの歴史家に1959-1960年シーズンのシーズン終了4週間前からの残留に向けた大事な試合に置かれた状況について彼の口からこう表現した。

”重要な試合は、キルマーノックとの対戦だった。我々は当初その試合をカップ戦の準決勝の日に戦わなければならなかった。なぜならキルマーノックはその準決勝でクライドとの試合があったから、私はウィリー・ワデル率いるキルマーノックとの試合を再設定した。

我々は土曜日に試合がなかったので、リザーブチームの試合を見に行ったんだ。キルマーノックは勝てばモチベーションは高いし、負ければ落ちる、もしくは再試合になることを恐れていた。

どちらにせよ我々は翌週の月曜日の夜に彼らと戦ったんだが、彼らのモチベーションは低かった。

月曜日の夜の試合にダンファームリンの公式戦で出向くのは選手や職員から評判は良くなかったが、カップファイナリスト相手に1-0で買ったことで私の決定は正しいものになった。

そのような考え方は、トレーニンググラウンド上での選手のちょっとした訓練からもはるかに取り除かれた。

これがステインにとって基本的で、無知で本能的な最初の采配上の心理戦にちょっとだけ踏み込んだことだった。これはのちにステインを有名にした、もしくは彼の対戦相手は無名にしたというであろう、ものである。

さて、キルマーノックの獰猛で誇り高い”ウィリー・【ディードル】ワデル監督と試合で対戦した、巣立ったばかりの新米監督にとって、相手の不利な点を正確に見極めて、出し抜いたことは、なかなか立派な実績だった。

過去においては青いシャツ(キルマーノックのチームカラー)でヒーローだったディードルを彼にとって初めての心理戦の勝利品の相手にして喜んでいるステインを、今でもありありと思い浮かべることができる。

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ホーム、イーストエンドパークでの試合

ステイン率いるダンファームリンがキルマーノックに一発かましたことは、彼らの初めてのタイトル獲得に向けた最中に続けられていた21試合無敗記録を止めたことでもあった。

ステインは初めて選手たちを彼らのキャリア上最も絶好調にし、選手たちはキックオフの20分前に、ドレッシングルームにいる選手以外の全員を締め出し、そして不気味なぐらい正確な対戦相手の分析を披露するのを目撃した。

現在においては何ら不可思議ではないが、1960年代のある種DIY的なフットボール環境においてこれをグラウンドに持ち込んだのは衝撃的な新鮮さだった。

このシーズン残留できたことで刷新する機会となった。ステインは移籍市場において1部のクラブとしての地位を固めることのできる選手の獲得を目指した。それが彼にとっての最優先事項だった。

安定した順位の確保、ヨーヨークラブ(降格と昇格を繰り返すこと)になることは避けること。

ステインはイングランドに行き、DFのウィリー・カニンガムとウィンガーのトミー・マクドナルドを獲得した。

他にも何人か加入させたが、この2人がチームを強固なものにするのに重要な選手たたちだった。
そしてそれはうまく作用した。

絶滅の危機(降格)に瀕していた時にステインが現れたことによって、ダンファームリンは、シーズン通してステインの采配となった1961-1962 シーズン、なんと、4位!にまで順位を上げた。優勝したダンディー!2位セルティック、3位レンジャーズが順位の上にはいるだけだった。

ステインが監督を引き継いだ時、ダンファームリンは、4勝13敗、得点51,失点66だったが、引き継いだ次のシーズンには19勝10敗、得点77、失点46と大幅に改善した。

チームはもはやステイン就任当初にあった転落への危機感はなくなった。彼らは単なる弱さをあえて見せなくなった。

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試合を見つめるステイン、このころ37歳だけど、もっと前から老け顔。

彼らが新たに作り出した自信は特にカップ戦において貪欲にさせた。

ステインの影響力のあるチームトークは、クラブ史上初のスコティッシュカップ獲得への道で、選手たちに示した。

1961年5月5日、準決勝リプレイの末、セントミレンをうっちゃり、ハンプデンパークの決勝で待ち受けていたのは他ならぬセルティックだった。

そして、決勝進出し、対戦相手が決まった時点でステインの策略が始まった。

まずは、ピッチの外からカップ獲得に向けて動き出した。

セルティックを押しのけて舞台後方へ追いやるために、すぐにエアシャー海岸にあるシーミルハイドロホテルに予約を入れて試合に向けて準備を始めた。

この美しい眺めの場所に建てられたホテルは長年にわたって特に決勝戦の前には、クラブが所有しているのではないかと思うほど、セルティックが使用していた。

前所属のクラブから、定宿にしている宿泊先を鼻の下から掠め取ったのは、まるで、王室天覧興行の夜に、ロイヤルボックスを事前予約するようなものに等しかった。

もちろんセルティック時代のステインをスタッフはよく知っていたので、セルティックがそれに対してできることは何もなかった。

これはすべて彼の選手たちをフットボールの卓越した環境を用意して、快適さと贅沢さを与えて選手たちがその高みに本当に到達したと優越感を感じさせるという決勝に向けての戦術の一つだった。

しかしステインは特に地方出身の選手たちは巨大なセルティックのファンに威圧されてしまうかもしれないと思っていた。ミラーはどうやってステインが対処したのかを思い出した。

”彼はあけすけなくセルティックは現在、強豪ではないし、優位にいるわけではない、彼らはそう強がって見せているだ。と言い放った。

彼は一人一人セルティックを一つ一つ分解して、セルティックの選手たちがどのようであったかを結論付け、ざっくばらんに我々に話した。

それは二、三を除き、どのポジションにおいて我々が彼らと対峙できるだけの質を持ち合わせていてると考えていたことだった。
ステインはセルティックの中も外も知っていたから、信ぴょう性の高いものだった。だから、彼は盛って話しているとも思えなかったし、その話に引き込まれたんだ。”

しかしながら、ウィリー・カニンガム、ステインのダンファームリン時代の選手で一番信念を持っていて、のちに立て続けに監督になった彼は、別のことを記していた。

”ステインはセルティックに特別な感情を盛っていると思う。それは愛情気味とも言えるものだ。ある時我々が試合へ向かう時、西(グラスゴー周辺)から来た男と話しているのを聞いたんだ。

ステインは特別な視点でセルティックを見ていた。彼はセルティックをカップ戦の決勝で倒したかった。それに関しては間違いない。彼は過剰なほどのプロフェッショナルだったが、間違いなくセルティックへの傾倒は存在していたよ。”

その5へ続く。