Hail Hail

 

第7章  東の輝く星  (原題:A Star in The East) その3

 

ステインがセルティックを去った時は、視界の遠くには、セルティックの監督として戻って来る、という保証などなく、ボードメンバーが彼にポジションを与える可能性のそぶりさえ見せなかった。

彼がファイフ(スターリングの近くの地域、彼が次に向かうダンファームリンアスレチックがある)で、自身の想像を掻き立てられるまでは、永遠にセルティックパークと決別すると感じていることはほぼ決定的であった。

ステインは、パーティックシスル(グラスゴーの「第2」のクラブ、現在プレミア)が、レンジャーズの元選手で現職のデイビー・マイケルジョンが1959年8月に試合中、スタンドで倒れ、病院に搬送されている間に悲劇的に亡くなったことを受けて、後釜にオファーしたいと知った時、セルティックを出て行く熱意が高まった。

しかし、そのシスルでの後任は元レンジャーズで、その後、ダンディーの監督にもなったウィリー・トンプソンになってしまった。

彼は他の情報網を持っていた。ダンファームリンに移るきっかけになったキーマンは、スコットンランドのジャーナリスト業界で働くジム・ロジャーだった。

”ジョリー”(ジムのあだ名)は、電話を使いこなし、オフィスをまたぎ、チェアマンから選手まで、さらには編集者から果ては首相に至るまで、スコットランドのフットボールに関する話題やゴシップという花粉を集めて回り、ミツバチが受粉するように、彼の知り合いの幾つかの新聞社に流して回っていた。

ロジャーとステインは、同じように元炭坑労働者だった。確信がお互いを通して濾過していくように、その共通項が信頼を生み出したようだった。

ロジャーはステインのキャリアを通して間違いなく彼に惹かれていった。そしてのちになって発見したことだが、ステインがスコットランド代表の監督を引き受けた後、ステインはロジャーを効果的に使って内偵者とコンタクトを取っていた。

ロジャーは他の人が、自分のことを狡猾なコバンザメだと言っていたことに別段腹を立てたりしなかった。自分は普段から追っかけたたことを得ただけなのだから。

だからダンファームリンがステインに興味を持っていることを知らせるロジャーからの電話は、確実性の高いものだった。

あたかも実際あったかのようにロジャーは話を作り上げ、ステインは新監督に採用されていなかったけど、出席するために招待されていたことをデイリーレコード紙に明らかにした。

ダンファームリンの監督就任に向けた面接を受けるために向かった候補者はセルティックのコーチであるステイン以外にもう一人いた。

それは、元レンジャーズの選手だったダニー・マクレナンだった。

面接を受けたのは、のちにダンファームリンのボードメンバーとなりさらにチェアマンにもなった弁護士のレオナルド・ジャックだった。

クラブから気を使われ、もう一人のインタビューが終わるのを待つ間ステインは紅茶の飲めるクーポン券を渡されて、街中にあるカローセルレストランにいた。

映画「カサブランカ」の、原作ではリック役を演じたジョージ・ラフトに対する件の中に同じような情景が描かれていた。”もう一方の候補者のダニー・マクレナンが監督の座を射止めたかのように見せるのは、不思議に感じなければならない。”

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ジョック・ステイン、ダンファームリンの監督就任の新聞記事

しかしながら、1960年の3月14日、37歳のステインはキャリア初のフットボールクラブの監督にイーストエンドパーク(ダンファームリンのホームスタジアム)で就任した。

記者に対して広報された就任後初めてとなるステインの声明によると、”ここには、使える予算があり、私は完全に掌握できると聞かされた。”

この声明はここ(ダンファームリン)で、以前にも聞いたことがある。そしてまたもか?

もし、これがインタビューと呼ぶようなものならば、このインタビューは一方的なものではなかったことを示していた、それはステインが、これから受けることになる仕事の基準を知っていたので、監督の座を引き受ける前に自らの条件を提示していたものであった。

結局その点においてダンファームリンは、当時、1部リーグの最下位からたった2ポイント差の3番目に位置し、前監督のアンディ・ディクソンは降格は逃れられないだろうと諦めていた状況だった。

この状況下では誰も新監督に就任したいとは思わなかった。

しかし、ステインが行ったことはパーズ(ダンファームリンの愛称)の財政状況を調べたことだった。

彼の最初の声明で、慣習的にクラブスタッフに対して、ステインがいかに彼らを尊敬しているかなどのお世辞を述べた後、さらに重要なことを付け加えた。

”クラブのシェアホールディング(株式保有)は、レオナルド・ジャックによって整理され、彼の影響力は継続的なクラブの方針とともにボードメンバーの委員会によってはっきりされるだろう。 私はクラブの未来が見えた。”

この声明は、監督の仕事を実行可能にするために、ドレッシングルームを超えてボードルームとチェアマンと重要なアラインアンスすることを考えいている男が初期の段階で方向性を与えたものだった。

たとえ将来彼がどこに行こうとも、指導することやマネジメントすることへの熱意は、彼が仕事をする上でしっかりとした財政的基盤を持つことを定期的に知ることで資産を抑制されていることだった。

彼は簡単に自分自身を成功へと導いた。

もう一つの大きな偶然はダンファームリンでの最初の試合相手は奇しくもなんとセルティックだった。

選手としての最初の試合も同じくセルティック相手で、有名な「デザートビクトリー」(有名な戦時中のイギリス映画の名前)に続いて、エルアラメインスタイル(1942年のエジプトでの戦い)の応対で監督デビューの日に選手たちを送り出すこともできた。

ダンファームリンは試合開始たった10秒ほどでセルティックにゴールをたたき込んだ。大きく隆々としたチャーリーディクソンがあげたゴールが、ステインの監督時代最初のゴールとなった。

このことはステインが選手たちをドレッシングルームからピッチへ向かわせる時に、猟犬を追い立てるハンターのごとく彼らを鼓舞したことに他ならななかった。

当時キャプテンで、クラブのマネジメントもしていたジョージ・ミラーは残念ながらこの試合は怪我でステインの次の試合まで欠場していたのだが、セルティックの試合前には一緒にドレッシングルームにいた。

彼は、”ステインはドレッシングルームの雰囲気を超活気づかせたんだ。その熱気は半端ないものだった。

セルティックについてどうやって抑えなければならないか、だけでそれ以外のことは言わなかった。

戦術について多くのことを話す時間もなかったけど、彼は何人かのセルティックの選手について、何をポイントに見ればいいかを話した。

ただ、それが一番重要じゃなかったんだ。前の監督のアンディ・ディクソンは完璧な紳士だったが、マイルド(柔和、スコットランドでははっきりしない)な人だった。

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ダンファームリンの選手相手に指導するステイン、彼の契約後初戦の相手は奇しくも古巣セルティックだった。

この新監督はあたかも選手たちの命はこの試合にかかっていると言わんばかりだった。それが功を奏して良い選手をさらに素晴らしい選手にさせたんだ。”と語った。

ダンファームリンは3-2でセルティックに勝利した。ステインの魂はチームに注入され、田舎の一般的な人々の不毛なグラウンドでさえ、クラブの成長が地元民の突飛な夢を凌駕するほどのものとなった。

この勝利が導いたこととして、実に4か月ぶりの勝利であったり、その後衝撃的な6戦で6勝を挙げたことでクラブは降格圏内から脱出することができた。

セルティックパークに戻ってきた時、彼の出発からそんなに経ってないのに、セルティックのボードメンバーはこの結果に考えこまざるをえなかったに違いない。

これらのありのままの統計は、計画者で策士のステインが出現したのではなく、実際には彼の対戦相手からマキャベリやもちろん彼自身を悪魔と描写されていたことから明らかになった。

その4へ続く