Hail Hail

 

第6章 勇敢なキャプテン (原題:Captain Courageous) その4

 

再試合前の数日間に、特に試合開始前のチームアナウンスメントの時に、彼が1965年にセルティックの監督に就任する為に戻ってくることにつながっていくきっかけが、彼の心を奪っていった。

彼は決して忘れなかっただろう。彼は、その試合の後長年経ってから私に認めた、リプレイの試合はメタメタだったと。

コリンズは先発から外れ、17試合で9ゴールを決めているニール・モーカンはベンチ外でスタンドに座り、ウォルシュのポジションは訳がわからない本来のインサイドレフトから右ウィングへ変わった。

センターフォワードのマクフェイルは、インサイドレフトへ、そして、ダイナミックなプレイスタイルで有名だったショーン・ファロンは、長い負傷期間から復帰してきた。

この変更は選手自身を困惑させた。コリンズが先発から外されたことを考慮してみると、これが起こることは単にセルティックの選手への挑発であった。

この小さな男(コリンズ)は、最初の試合において確かに、手を抜いていたことがバレバレだったため、ボブ・ケリーは、その態度が気に入らなかったので、先発を外されたのであった。

ステインは、ケリーに対してひどい言葉を決して口にするようなことはしなかった。しかし、彼はウィットに富んだ監督のジミー・マクグローリーのことを頑として無視し、越権し、さらに実際にはリプレイでセルティックが破れた時には、ものすごく侮辱していたことを私に同意していた。

ただ、ステインが、セルティックの監督として戻ってきた時にマクグローリーに、たとえ彼が単なる引退を待つ古くからの従業員だったとしても最大級の賛辞を送っていて、マクグローリーがなくなるその日まで”ボス”と呼んでいたことは指摘しておきたい。

クライドの機動力のあるフルバックのキャプテン、ハリー・ハドックは、ドレッシングルームにいるセルティックの選手たちが、メンバー変更に驚いて彼らの自信が揺らいでいることを読み取った。

ただそれは、それほど選考失敗ではなかった。

ひどい雨で濡れた夕方で、”たった”68,831人しか入らなかったリプレイはテレビ中継さえもなかったハンプデンパークで、クライドのトミー・リングが後半7分に唯一の得点を挙げた。

リングはクライドにスコティッシュカップをもたらしたが、ただセルティックを応援している彼の兄弟の怒りに触れ、次の日一緒に食べる約束していたディナーは、キャンセルされてしまった。

セルティックにとっては尾をひく敗戦だった。なぜなら次のスコティッシュカップを獲得するまでそれから10年かかってしまったのだから。

 

ステインはこの無様な敗戦をした夜を消し去りはせず、彼の今後の糧とした。

しかし、もし彼がその時、不快に思っていたとしたら、この衝撃は彼の”What might have been”(”そうだったらよかったのに”という意味だけど、歌の名前?)が流れて、肩越しに振り返ることで少しは和らいだかもしれない。

デイリーレコード紙でのクライドとのリプレイに対する記述のそばにこんな文章が見受けられた。”リプレイが行われた同じ日にステインが以前所属していたアルビオンローバーズはホームクリフトンヒルで、入場者172人、入場収入£10ちょっとで、Bディビジョン(2部?)のブリキンシティと試合をおこなっていた。

主審と副審に給与を支払った後ローバーズには11シリング(100シリングで1£)しか残っていなかったが、アルビオンはブリキンに、£150のギャランティーを払う必要があった。

ローバーズの窮状に、ステインは同情をしていたのかもしれない。しかし一方で彼の現在の幸運を改めて思い出させるものとなり、”ギャングの馬鹿げた行動”セルティック指揮は、貧乏に近いところに存在することが好まれていた。

この特別なリプレイでの転落から、気づきとある種の放免が彼の元に訪れた。重要なことに、ブランタイアにあるジェームズ・ケリー セルティックサポーターズクラブは、カップ戦決勝の後にステインをシーズンの最優秀選手に選出したと、4月29日のデイリーレコードは伝えた。

”この受賞は、セルティックへの彼の献身的な貢献を評価したから”

celtic1955

前列中央がセルティック選手時代のステイン、前列向かって右端がニール・モーカン、その後ろがショーン・ファロン

ホームエリア(西スコットランド)の別のフィールド(プロテスタント)から来た男は、ついにセルティックのアイデンティティと調和した。

彼の故郷のバーンバンククロスは今や遠い過去のものになったようだ。

その夜のブランタイアで、ステインがセルティックとスコットランド代表の両方の監督を兼任していた頃に、付き添い役としてフットボールの世界を一緒に回っていた男と会った。

トニー・マクギネスはブランタイアでの夜に、他のセルティックの選手よりもステインと出会ったことをよく覚えていた。

”彼らは、巨大な冷蔵庫をジョックにプレゼントしていた。冷蔵庫は当時高かったからね。 私は彼の実直さを大いに気に入ったし、彼が話すとき何か惹きつけられるものがあったんだ。

正直さ? というのは簡単だが、それこそが彼についてあてはまるんじゃないかと思うんだ。 そして、もちろん我々はかrのバックグランドを知っていた。だから、正直言うと彼が現在セルト(セルティックの人という意味)であるのはちょっと彼を特別にさせてるんだと思う。”

ステイン自身は、1955年にセルティックサポーターアソシエーション(クラブ外部にあるサポーターの統括組織)にあてたメッセージにこうしたためた。

”他のセルツ(当時からスコットランドではハイバーニアンやダンディーユナイテッドなどはカソリックのクラブ、イングランドや他の地域でもxxセルティックというクラブがゴマンとあった)は好きになれなかった。

(グラスゴー)セルティックが、自分の初恋のクラブだと言える、しかし、わかっているのはセルティックが自分にとって最後で、永遠に愛し続けるクラブであると知っていることだ。(2番目などは存在しない)”

ステインはセルティックのコミュニティをコロネーションカップ優勝とリーグ、スコティッシュカップの2冠に導いたことによって再び活気づけさせた。

さらに彼は(セルティックファンが持つプロテスタントに対する)恨みや不寛容に対しても打ち勝った。
それは単に彼のホームエリアということではなく、セルティックパークの中心にまで及んで大勝利を得た。

しかし、母なる自然に対して彼の体にできた窪みには効果はなかった。(彼の父親や友人たち)

 

7章へ続く。