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第6章 勇敢なキャプテン (原題:Captain Courageous) その3

 

選手としてステインは、自身のキャリアの最終章に差し掛かっていた。

しかしながら、フットボール思想家として、ステインはまだ小学校も卒業していなかった。
ただ、彼は援助を得ていた。

偏狭な独裁者という印象にもかかわらず、チェアマンのボブ・ケリーはステインにセルティックパークの中のささいな仕事が扱われている時に、彼の信じるフットボール学をすぐに伝えた。

ハイバーニアンは名誉とともに除かれるが、自分たちの身の丈以上のことは望まない他のスコットランドのクラブと比較して、ケリーは紛れもないトーマスクック(イギリスの旅行会社の創業者、プロテスタントの伝道師)だった。

過去50年で最も輝かしい成功を収めたシーズンのご褒美にチーム全員を1954年に開催されたスイスワールドカップに連れていった決定をしたのは、ケリーの将来を見越した熟慮の上か、はたまた健康的な実用主義者たる所以か。

このケースが何であれ、セルティックの選手たちが、ウェンブリーでイングランド x FIFA選抜、イングランド x ハンガリーの試合を観戦しに派遣されたのと同じパターンに習ったものだった。

そしてワールドカップでの滞在と観戦はステインに最大級の強い印象を与えた。

ステインはハンガリー代表(マジックマジャールとヨーロッパ中で恐れられた当時最強のチーム、レアルマドリードのフェレンツ・プスカシュがプレイしていた)に受けた衝撃は二度と忘れなかった。それはもちろん私たちにとっても同じことだった。

しかし、我々と違い、少なくともステインは、長年にわたってハンガリー代表に匹敵するチームを作ることができないかという探求し続ける立場にいた。

1967年リスボンのセルティックは、その13年半前にピッチ中でイングランドに群がっていった赤いチェリー色のユニフォーム(ハンガリー代表のカラー)を正確に形作ったわけではなかったが、プスカシュ、ヒデクチとその他の選手は、ステインの目には煌いて、彼の理想像を掻き立てた。

そして、彼の同僚の選手たちもたとえどんな段階にいようと、その刺激を受けていた。

ワールドカップ本大会に行ったことで、たくさんのチームを見ることができたが、ステインはむしろ、スコットランド代表の大会へのウィットのかけた事前準備のため、0-1でオーストリアに敗北し、監督のアンディ・バーティが更迭されたのを目撃したことを通して、ミスマネジメントについて多くを学んだ。

スコットランド代表は続けざまにウルグアイに0-7と殲滅させられた。ステインはウィリー・ファーニーとニール・モーカンの2人のセルティックの同僚が、この悲劇の試合でプレイしていたことに同情を感じざるをえなかった。

しかし、もしかしてステインは、この大会を囲んだ大失敗に本当に驚いていただろうか?

結局のところ、フットボールに関する特有の事項を取扱っているのは、尊敬すべき意図を持って選手の教育のための旅行に送り出したその素晴らしい男、ボブ・ケリーによって、グラスゴーのイーストエンドにある彼の玄関で実行させられていた。

そして、1954-55シーズン、ステインの影響力は今までにないぐらいさらに劇的に大きくなり、チームの問題は単にもう一つの自己犠牲の様相で、ボードルームレベルから干渉するようになったことで証明された。

セルティックは、シーズン当初は正しい道を歩んでいた。9月18日のセルティックパークでは2-0で、守備の要だった有名なセンターハーフのウィリー・ウッドバーンが無期限出場停止だったレンジャーズを破った。

しかし、シーズン序盤は成功したにもかかわらず、さらには昨シーズンよりも勝ち点3多く稼いだにもかかわらず、アバディーンに優勝をさらわれ2位に甘んじてしまった。

ステインは1955年の元旦に行われたレンジャーズ戦で、不注意なヘディングによりレンジャーズのデレック・グリアソンにボールを渡してしまい、グリアソンからビリー・シンプソンに繋がれ先制点を奪われ、1-4で敗戦してしまった一番の原因とされ、侮辱に苦しめられた。
(ベルファスト出身のビリー・シンプソンはステインの選手キャリアの後半の試合において偶発的に関わっていた。)

それとは別に、それほど重要ではない間違いが2,3あり、同じMr.セロファンが出てきて、残りのシーズンを一般的な認識よりも少なく、彼のチームを結束させた。

しかし、ほんのわずかな差でリーグ優勝を逃したことに対しての失望は、1955年のカップファイナルでの敗北が原因となる衝撃に比べれば、単なる身震い程度でしかなかった。

セルティックとクライドで行われた決勝はそれぞれのクラブのここ数年間の歴史の隙間に見つけられる。
少なくとも初めてテレビで生中継された試合だったことが理由なわけではないが。

のちにリスボンの決勝で、私と一緒にコメントをしてくれたケネス・ウォルステンホルム、白黒時代の粒子の粗いマック・サネット(1800年代のアメリカの喜劇王)と言わざるをえないような放送だをするためにロンドンから来た。

(ボブ・ケリーは、もし、彼のやり方を貫き通していたら、試合を生中継させることを許さなかっただろう、その頃ケリーは、テレビに対して異常なまでの嫌悪感を出し始めていた。 そして彼の恐怖が現実のものとなったかのように、(現代の観客数と比べるとものすごい観客数なのだが、106,234人の入場者数と、予想よりも少ない観客数になってしまった。)

セルティックは、クライドのディフェンスに圧倒した試合前半の30分で試合を決め、カップを勝ち取るべきだった。

ボビー・コリンズが前線で一番恐れられた選手であることは明らかだった、そして並外れた一番人気の騎手のように観客を味方につけていたかのようにこの小柄な選手はプレイした。

彼は小さかったが頑丈な体躯で、果敢に飛び込み、ある時には、クライドのゴールキーパーで南アフリカ出身のヒューキンスも手を焼いた。それは、後で起こることのために重要だった。

エレガントで長い歩幅のウィリー・ファーニーが、ペナルティエリア際でお膳立てをして、ジミー・ウォルシュの2点目が38分、セルティックに決まった。そして、セルティックがハンプデンパークで決めた初ゴールは、すなわち、これから習慣的になるテレビ向けの歓喜とトロフィー授与しきの先駆者になることを表していた。

しかし、この国のテレビ観戦者は、ハンプデンパークで最も奇想天外なゴールに関与することになった。

セルティックにとって、最初に主導権を取った後、急に気が抜けたようになったか、もしくはグラスゴーのイタリアンレストラン、フェラーリで、祝勝会の食事後のどんちゃん騒ぎに気が飛んでしまったのかのようなプレイになってしまった。

クライドは、試合の流れを引き寄せただけではなく、セルティックをもっと守備的な雰囲気に持って行った。

セルティックはそこに苦しんだ。試合終了2分前にクライドは、セルティックのゴールに向かって左サイドのコーナーキックを獲得した。コーナーキックは、高くそびえ立つ強靭なインサイドフォワードのアーチー・ロバートソンが蹴った。

セルティックの選手たちは、悪気なく誰もコーナーの方に注視していなかったことで、致命的な局面を迎えた。

ロバートソン自身でさえ、彼のキックの欠点を認めていた。”ボールはこんなにゴールキーパー近くに蹴るつもりじゃなかったんだ。”と告げた。

多分、風に流されたに違いない、ただ、それが普通の風じゃあなかった。”ハンプデンの巻風”と呼ばれる独特の風が吹いていた。

セルティックのゴールにはジョン・ボナーがいたが、コロネーションカップ決勝での英雄的な守備を見せていた彼は、そのクロスボールが来た時は、完璧さを描いていた。

不注意に彼の目は宙を泳ぎ、しかし、本当にその風は吹いていたので、ボールの軌道は曲がってゴールへ向かい、最後の瞬間、ボールを触ったボナーはあたかも別れに手を振っているようだった。

ボールは彼の指をすり抜けてネットに吸い込まれクライドは同点に追いついた。

これにはセルティックのカップ獲得がすんでのところでこぼれ落ちるなどほとんど信じていなかった、セルティックサポーターだけじゃなく、メディアとケネス・ウォルステンホルムは、スタジアムから去って行った。

しかしそれゆえ、今回起こったことはステインの心の中に、純粋にチームを監督の立場から率いたいというニーズを引き起こした。

 

 

その4に続く