Hail Hail

 

第6章 勇敢なキャプテン (原題:Captain Courageous) その2

 

2月20日には、ハーツの後ろにつけて7ポイント差の2位まで上がっていた。この順位はセルティックにとって数年ぶりのものだった。しかも、お金を払ってでも見る価値のある印象を与え、チームはステインの元で大刷新を進行中だった。

ステインは、彼自身をお手本として示した。1953/54シーズン、11月7日のセルティックパークで行われたハイバーニアンとの大事な一戦で、たった2分間でロウリー・ライリーに2点リードを許し、前半35分でチャーリー・トゥリーが退場になって、10人での闘いを強いられた中で、本能的にギャンブラーだったステインは、守備を捨て自ら前線に上がっていった。

試合時間残り7分間で、ステインはサンデーリポート紙が、”破壊されたセルティックの輝かしい気概”と見出しで評したように、”ミスターセロファン”ではなく、映画、「オレゴン魂」に出てくるジョン・ウェイン演じる、ルースター・コグバーンの気概を印象づけさせる時間を作った。

新聞には、”ボーイズ(セルティックのこと)自身によるきわどい結末”(Boys Own Paper Finale)”とあった。

セルティックの側からすると、選手達10人になってもよく闘い、同点に持ち込んだ。

ジョン・マクフェイルが頭でゴール前につなぎ、そして、スポーツライターのジャック・ハーキンスが表現するには”それに対し、また別のヘディングが、ボールをゴールへ突き刺したんだ。そのヘディングシュートを決めたのは誰あろうジョック・ステインと知った時はびっくりしたね。

周りの選手を鼓舞した上で、キャプテンは見事にやってのけたんだ。”

この試合は2-2の引き分けに終わり、ステインはセルティックのキャリアで生涯唯一の初ゴールを記録した。

もし仮にステインがセルティックパークのでキャリアで、たったもう1ゴール決めていたとしても、この初ゴールは、セルティックのホーム無敗記録を伸ばすのを助ける重要なゴールとして思い出されるだろう。

彼らの惨めなアウェーでの成績と比較するとこのホームでの成績は決定的だった。(この時はシーズンを通して7敗もしていた)

この試合で誰の目から見ても明らかにリーダー以上の存在になってることを示した、ステインは試合を通して怒鳴り、吠え、何かあった時に命令するのではなく、彼自身が身を以て示すことで関与した。

このシーズンセルティックの最大のライバルとなったのはエジンバラのハーツだった。

ただ、1954年の2月にタインカッスルで、ハーツのジミー・ワードホーが決勝ゴールのためにセルティックのキーパー、ジョージ・ハンターを押してゴールラインを割らせたファウルが認められ、3-2でハーツを打ち負かした後、この試合がシーズンのターニングポイントとなった。
(※決勝ゴールが取り消されてセルティックが勝ったのか、どういう決勝点が生まれたのか、ちょっと不明、原文によると、ハーツのファールしながらも決勝点が生まれ、ハーツが勝ったように読めるが、どちらにしろセルティックの勝利)

その試合を含めセルティックは、ホーム9連勝とアウェー4連勝、うち、32ゴールを決め、失点はたった4という一連の結果を達成していた。

4月17日のイースターロードスタジアムで、ハイバーニアンに勝利したことで、セルティックは1938年シーズン以来、16年ぶりとなるリーグ優勝を達成した。

デイリーレコード紙のドナルド・ブルースは、その試合で、あたかもいきなりステインの重要性に気づいたかのようで、(デイリーレコードは昔から典型的レンジャーズ寄りの新聞)その月の後日に、ステインのプレイの選択をイングランドリーグに対する、スコットランドリーグのためにこう評した。

”闘うセルツに素晴らしい印象を受けた。”

セルティックは、試合開始60秒でのモーカンのゴール(彼のキャリア上最速のゴール)で彼らの順位を不動のものとし、ヒブスは失点を取り戻せなかった。さらに、モーカンが追加点を決め、試合終了4分前にジョン・ヒギンズがタイトルを手中に引き寄せるゴールを決めた。

試合の2日後のデイリーレコードでは、トム・ニコルソンが、3-0で勝利し2冠の一つ目を確保したヒブス戦で、ステインのパフォーマンスは”際立っていた” と評した。

たとえセルティックがカップ戦においても、優勝候補と目されていようと、ステインは長年にわたって、リーグ優勝こそが最優先事項だという考えを決してかえなかった。

だからステインはクラブが過去40年間で最も輝かしいシーズンとなるためにもう後一歩の所まできているスコティッシュカップ獲得を、ほとんどの人が未だにリーグよりも興味をもたれていることにストレスを感じていた。

セルティックは、比較的容易い相手と思われていたマザウェルにリプレイの末3-1で下し、(初戦は2-2の引き分け)4月24日に129,926人を集めたハンプデンパークでアバディーンと決勝で対戦した。

ステインとチームメイトは、これだけの大観衆の前でプレイするのは初めてだった。彼はこの状況に対応していた。

この試合でステインは、その日一番のトリッキーなセンターフォワード、パディー・バックリーと相対すことになっていた。バックリーは、意のままに素早いダッシュでディフェンスの隙間をつく、ちょこまかしながらゴールに突き刺す選手だった。

しかしながら、4月26日のグラスゴーヘラルド紙によると、その脅威は、おとぎ話のような選手キャリアを積んだステインが、歩調を合わせ、彼の不利な点を逆手にとった潜在的なプレーセンスを総動員し、さらに特筆すべきは、エバンスが折につけステインのポジションをアシストしていたことで無効化されていた。

しかし同紙では、セルティックが先制した後にすぐ後の、52分、彼がヘディングでクリアしたボールが弱々しく、それが元でバックリーに同点を許してしまったという、ステインによる”ごく稀な過失”があったと記していた。

その後、63分にジョン・ファロンが決勝点を決め、セルティックに勝利を引き寄せた。この日は試合を通して優勢に進め、勝利は当然のものだった。

ヘラルド紙のおとぎ話のようなキャリアの男に対する賞賛は、他の人の制限を努力で伸ばすことを減らす可能性のヒントがふくまれていた。

”歩調を合わせ、彼の不利な点を逆手にとった”と、”エバンスが折につけステインのポジションをアシストしていたことで無効化されていた。”と記事では読めるが、あたかもステインは、自分にハンディキャップがあることを年が進むにつれ理解しだしたかに読めるかもしれない。

ステインは血気盛んな時には、セルティックに来ていなかったが、大人になって賢さを身につけた。

もちろん、このような選手は制限があり、32歳近くになって怪我に対する保護のできない”頭”という最も賢い頭脳の使い方を身につけた。