Hail Hail
第5章 栄光の年 (原題:Crowning Year) その2
移籍してきて間もないのにもかかわらず、ステインはそのプレイの堅実さと個人の力で、セルティックのチームで難攻不落なポジションを確立し、彼の残りキャリアを通しての適所を作り出した。
それでも、ラネリーから移ってきた最初は、その頃定着していた何人かのチームメートとは折り合いが良くなかった。
しかしながら彼について明確だったことは、彼の入団を胸の内では心良しとしない選手たちに対して、彼がピッチ上で声を出し、組織立てることに際立って存在感を示し、リーダーシップの資質を持っていることだった。
このことはボブ・ケリーとジミー・マクグローリーに、ドレッシングルームでのステインに対する不満に耳をかさないことをさらにはっきりさせた。
ステインの特性に一番疑いを持っているのは、二人いた。一人は、新加入選手は、チームにとって余剰の選手を取るべきと感じていたジョン・マクフェイルと、北アイルランドのベルファスト出身で単純にステインのプロテスタント出身に嫌悪を痛いていたチャーリー・トゥリーだった。
二人ともチーム内に確固とした地位を確立した選手で、しかもテラス(ゴール裏のファン)のお気に入りだった。
彼らはこの新人による入ってきてすぐから発揮したリーダーシップを認めたがらなかった。
ステインはトゥリーを選手として非常に尊敬していたが、彼の態度を嫌っていた。北アイルランドの社会的騒乱に対するトゥリーへのファンからの偏愛は、ステインの気難しいプロテスタント長老派の労働観からは受け入れられなかった。
自身のキャリアを通して、ステインは100%を出さない選手を嫌っていた。
ステインはセルティックにとってのフットボールは、一部ではスポーツであるとともに、一部では、自分たちの信念への拠り所となっていることに気づいた。
ショーン・ファロンは、ステインが、素晴らしいプレーのクオリティと凄まじいファンからの人気を持っていることがベルファスト出身のトゥリーを過剰なほど異端にさせていると気づいた。
”試合中にチャーリー(トゥリー)は決して守備に走って戻らなかったし、彼を試合中に見ることもそう多くなかった。しかも金曜日の夜は夜な夜な飲み歩いていたんだ。”とフェロンは言った。
もちろん新しい選手が加入した時、特に試合において独自の視点を持っている場合は、ドレッシングルーム内で反感を受けていたのは珍しいことじゃなかった。
ステインはその経験をそもそも発言的な性格もあり受けていた。そして、同じレベルで冗談を言い合う選手とつるむのを好み、試合を分析するのを愛していた。
ステインは、同じような考えを持つ、北アイルランド代表のバーティ・ピーコックとショーン・ファロン、彼自身を仲間として見出していた。
この二人は、セルティックが伝統的にどうプレイしていたかを象徴していた。ピーコックは北アイルランドのプロテスタントで、ファロンはもともとゲーリックフットボールをプレイしていたアイルランド共和國出身のカソリックだった。
ステインはこの二人のことが同等に好きだった。
ファロンは、チーク材のように無骨で、分厚い胸をして、時に荒削りで無教養に見えたが、危険を覚悟で相手選手によって無視されていたように、試合に取り組んでいた。
一方のピーコックは、確かにもっと上品な感じであからさまにファロンとは対極に試合をプレイしていた。
この三人(ステイン、ファロン、ピーコック)は、パトロンのボブ・ケリーを加えドレッシングルーム内で手強いグループを形成していた。
ケリーは、この三人がそれぞれの理由で好きで、それは彼らを切っても切り離せないし、互いに影響し合っていたことを意味していた。
そして影響しあうことはステインが常日頃から欲しているものでもあった。
この三人はグラスゴーにあるイタリアンレストランの”フェラーリ”に頻繁に通っては、長い昼食の時間の間ずっと論じ合っていた。
ステインはグラスゴーの様々な賭け事屋との関係を育むことで、彼のギャンブル依存が社会的に知られることはあまりなかった。彼のキャリアを通してもギャンブル依存に関する証拠は上がることはなかった。
ステインは特に競馬が大好きだった。ハマり始めた初期の頃は賭け事屋で日がな一日中、賭けてないことはなかったぐらいだった。
その頃賭け事屋を始めた熱烈なセルティックサポーターである、グラスゴーの賭け事屋のトニー・クイーンによると、1975年のステインがロッカビーで起こした自動車事故でほとんど関係が絶たれるまで、ステインと生涯にわたる付き合いをしていた。
クイーンはグラスゴーのソーキーホールストリート(バーやパブの立ち並ぶ繁華街)出身だった。
彼はステインにとって、グラスゴーでのオールドファーム同士による煮え滾るような強烈な主張の中で、完全に信頼して打ち明けることができる数少ないカソリックの一人だった。
クイーンは、ステインについて話すときはどんな時も、親しみを込めて”ビッグ・バラ”とステインのことを呼んだ。
彼がステインにフラッシュバックの恐怖を感じることなしに言い返すことができた、そして、一,二杯飲んだら特に、ドライなウィットを使ってステインの巨大な姿に畏怖の念を抱いていないことを示した。
これは、その時ステインにとって、セルティックサポートとピッチの外で関係を保っていた純粋な友情だった。
だから、ドレッシングルームの全員からステインが歓迎されていなかったにもかかわらず、そもそも彼が西スコットランドでフットボールをする環境に戻ってこれて、誰でも知っている有名なクラブで新たなスタートが切れてそこで思いっきりやれる幸運に感謝していることに比べたら、諍いなどささいなことだった。
その3へ続く。