Hail Hail

 

第5章 栄光の年 (原題:Crowning Year) その3

 

 

しかし彼にとっての最初のシーズン、1951-52シーズンは、うまくはいかなかった。

ステインは20試合に出場し、ハイバーニアンが優勝を決めたのに対しメディアやファンの想像をかき立てることなく9位と言う結果に終わった。

誰も、ましてやトニー・クイーンでさえも、次のシーズンにどんな結果になったのかは、かけることができなかっただろうし、ステインのキャリアにどんな栄冠が舞い降りたかも予想できなかっただろう。

1952-53シーズンは当初ショーン・ファロンがセルティックのキャプテンを務めていた。
ショーンは彼の責任で副キャプテンを決めなければならなかったのだが、白羽の矢をステインに立てた。

にもかかわらず、ステインにとってこの役目は長くは続かなかった。

12月20日のフォルカーク戦でファロンは腕を負傷したのだが、彼の典型的なタフさと熱意でピッチに立ち続けた。(実際にはファロンはこの時4か所も腕を骨折していた。)その時に副キャプテンだったステインがキャプテンマークを譲り受け、その後、彼のセルティックでの選手生活が終わるまでそのキャプテンマークを誰にも渡すことはなかった。

再び、クラブ内で起こった、他の選手の不幸で、彼の元にチャンスが回ってきたようだった。

トニー・クイーンは彼のことをかつてこういったことがある。
”もしクライド川におっこったら口からニジマスをくわえて出てこい”

彼のキャプテン就任は全員が納得したわけではなかった。結局ステインがやってきた時からセルティックの選手として受け入れがたいものなのであった。

屈強なディフェンダーのジミー・マランは、最初はステインのことをまるで腫れ物に触るかのごとく扱っていた。
”何があってクラブはお前を獲得したっていうんだい?! 我々には何人ものセンターハーフがいるじゃないか”

時折、独創的なドリブルとパスで、セルティックのスタイルに創造性を呼び込む、チャーリー・トゥリーは 、セルティクの伝統が損なわされていると感じており、アイブロックスでレンジャーズ相手にコテンパンにされた時は、ピッチから戻ってくるや否や、ドレッシングルームでステインより良い選手を取ってくれと不満をぶちまけた。

”このドレッシングルームにはプロテスタントが多すぎる!” (レンジャーズ相手に手を抜いて加担しただろう、という意味)これは多くの選手を怒らせ、あわよくば殴り合いに発展せざるをえないぐらいだったが、フィールド上での荒々しいプレイととは対照的に、ドレッシングルームでは愛想よく静かな態度のショーン・ファロンが、その張り詰めたムードに呼応することなく反発を収めることができた。

ショーンは ”俺は、プロテスタントの助けなしではできなかったと指摘していることにうんざりなんだ。(注、逆のような感じがするんだけど、本文はこうなっている。しかし、おそらく”俺たちはプロテスタントがいなくてもやっていける、”と解釈する方が文脈的にも正しい気がするが)

例えば今ならバーティ・ピーコックやボビー・エバンスのように、セルティックにはいつもプロテスタントの選手がいたし素晴らしい選手だった。

そしてセルティックは誰に対しても敷居を高くすることはしなかった。

確かに、俺とステインが一緒にいてやっていることを嫌っている選手がいるのも知っている。でも、これは正しいことだと証明できる。

俺は単に彼がフットボールについて語ることが好きなだけだ。

彼はピッチの中、外からフットボールの試合を知っている。彼が話しているのはとてもシンプルな当たり前のことだ。

そして彼が自分自身についてよくケアできるのを知っている。我々が起こした争いから脱して彼は試合に入っていくことができた。

そして、俺が腕を骨折した時、問題が起こったんだ。

俺はバーティ・ピーコックとは長い友人だったが、彼を横に呼び、俺がいない時はジョックをキャプテンにすることを告げ、やがてこの役目は彼の時代になるだろうと告げたんだ。現にそうなったしな。”

だから、この大男はキャプテンになり、この決定はボブ・ケリーも干渉できない決定事項だと知っている。

その段階でドレッシングルームを支配していたチェアマンは、ジョックがその役割になることはいいことで、とても気に入っていた。だから今後一切誰かがキャプテンについて口外しても、誰もボブ・ケリーに反抗する者はいなかった。

ステインでさえ、一度バーティ・ピーコックと一緒に試合前日に飲み歩き、自分の”スパイ”から聞いたチェアマンからひどく叱責されたことがある、実際その時はステインはレモネード、ピーコックはたった一杯のビールだけだったのだが。

ステインに他に何を注意したのかは別として、セルティックのコミュニティの中に内偵する情報源が存在して、ケリーの道徳観を理解して熱心に告発していた。

このコミュニティの告発システムはステインが監督になってからも彼を苦しめ続けた。

そしてその時代は、ステインとその仲間たちはピッチの上でも苦しめられていた。特にチェアマンは、何人かの選手と同じく、不満を持つセルティックサポーターの標的だった。

ケリーの幅広く伝達する役割は必然的だった。ケリーは、ベンチのディレクターズボックスの中央に座り、セルティックが、次々とスランプに陥った時、サポーターから浴びせられる叱責を、あたかもラシュモア山が復元するかのごとく禁欲的にじっとサポーターの方向を見据えて聞いていた。

したがってこの非常に節操のあるケリーは、セルティックがまたもやドツボにはまっていたので、他の誰かが苦しむのを監視するよう、ピッチの中外で最高レベルの指揮をとることを要求していた。

しかしその時は予想外の出来事がやってきたため、ディレクターズボックス内のケリーの席を今いるメンバーの中で任せる可能性は低かった。

それは、不運な形で始まっていたかもしれなかった。

 

その4へ続く。