Hail Hail

 

第5章 栄光の年 (原題:Crowning Year) その1

 

あらすじ:ウェールズからセルティックに移籍してくるとともに、スコットランドにも帰ってきました。
彼の選手キャリア最高の年である1953-1954シーズンは、その前のシーズンの一大イベントで早くもクライマックスを迎えます。それがエリザベス2世女王の即位、戴冠式に記念して行われた「コロネーションカップ」です。
数年前にセルティックパークのスタジアムツアーに行った時、ガイダンスのおばちゃんが、このコロネーションカップが個人的に一番好き、と言ってたのを思い出しましたが、それを納得付けるドラマがこの大会には待っていました。

 

1953年の5月20日、試合のキックオフを前にして、コロネーションカップの決勝の地、ハンプデンパークのセルティック側入場口が閉められた。

この試合は11万7千6百人という観客を集めたが、貧困と抑圧への苦悩に苦しみながらも、彼らの多くは大会のクライマックスを見るために数百マイルを旅してきていた、数千人がスタジアムから締め出され、伝統的なイーストエンドのテラス立ち見席に立錐の余地はなかった。

セルティックは取り立てるほどのない平凡なシーズンを過ごし、ライバルのレンジャーズがリーグとカップの2冠を達成してるのを見届けるしかなかったが、このユニークな大会、

(エリザベス2世女王の戴冠式を祝して行われたイングランド、スコットランドの8クラブによるトーナメント。セルティックの他にレンジャーズ、ハイバーニアン、アバディーン、イングランドからはマンチェスターユナイテッド、ニューカッスルユナイテッド、トットナムホットスパー、アーセナルが参加)

の決勝に駒を進めたことは、セルティック側の期待への胸の高鳴りが、スタジアムの内外問わず、心地よく晴れた春の夕方が、一種戸惑いを感じさせるスパイスにもなった。

その日、スタジアムを埋めた大観衆は、セルティックが入団とともに議論の対象となっていたが、入団するや否や、驚くべき短期間に、キャプテンシーでチームの魂と組織にとって、セルティックのクレストになっている四つ葉のクローバーと同じくらい欠かせない存在となった男にピッチの内外で導かれるのを見た。

ジョック・ステインのキャプテンシーは、証書付きでセルティックの歴史に名を刻む機会と、たとえ不適切だったとしても打ち勝つ能力、かき立てられたレジェンド、その広いコミュニティで、まぎれもなくフットボールのメジャークラブにふさわしいという永遠に刻まれるであろう機会を得た。

この1試合は、1967年に当時のリバプール監督ビル・シャンクリーが、リスボンでのチャンピオンズカップ優勝を成し遂げたステインに対して「ジョック、君は不滅だ(Immortal)」だ」という有名な宣言があった絶頂期へ向かう運命のレールに無慈悲にも乗ってしまったようであった。

ステインは、本当のハードワークを通して、コンディションを維持していた。

1951年の12月4日、週給12ポンドで、契約をし、その4日後、チームをつきまとう怪我の連鎖の影響で、悲惨なほどのずぶ濡れのコンディションの中、20,000人(雨の影響で前回のホームゲームよりも10,000人も少ない)しか集まらなかったホームでのセントミレン戦でデビューを果たした。

彼は試合を通してミスなく手堅い守備を行った。

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アイブロックスでプレイする現役時代のステイン。

 

サンデーポスト紙によると、”ステインは静かなデビューを飾った。取り立てて印象を残すようなものではなかった”と、あったが、サンデーメール紙では、この試合に対してのチーム広報が、動揺を引き起こした。

”試合開始時の発表では、ジョック・ステインがセンターハーフ(センターバック)でプレイしていて、そしてジョン・マクフェイルがアウトサイドレフトでプレイしていることに、観客は仰天するしかなかった。

ステインの名前を試合開始時に聞いたことには、推測を掻き立てられた。多くは、もちろんたんに今まで彼の名前を聞いたことがなかったからだが、多分本当に思いがけないことだった。

グラスゴーヘラルド紙のシリル・ホーンは、ある貴重な指摘をしていた。

”1時間以上、この背の高い、ガタイのいい選手は、先発の11人に連ねるのにふさわしいプレーを見せた。試合後半まで予想外に疲れを見せる前に、ディフェンスのチームメイトを鼓舞するかような自信を見せつけた。
そして空中戦と足下でクリアの長さと正確さを見せつけた。

ステインは生まれつきの左足利きの選手だが、スチュアートはセンターハーフのポジションは彼にとって難しくさせていると警告していた。”

10人中7人の経験豊富で優秀な記者から、同様な評価を得たことは最初の試合にしては悪くなかった。

ある種のメディアからの印象を与えたことは、彼は次の試合、メットヒルでのイーストファイフ戦に過剰な熱狂に苦しめられていたかもしれない。

彼は相手フォワードと激突して脳震盪を起こし、15分ほど治療のためピッチの外に出ていて、ピッチに戻っても影響で残りの時間をフラフラしながらあまり貢献できずに左サイドバックでプレイしていたため、3-1でセルティックは破れてしまった。

ただ、彼が復活してきた次の試合マザウェル相手に2-1と勝利し、さらにアウェーのピットオドリーでアバディーン相手に4-3で満足な勝利を得た。

彼はウェールズの谷の街からグラスゴーのイーストエンドへ、息つく暇もなく移動したことによる当然の困難を、一切当惑する状態を見せることはなかった。

1952年の元旦の日、彼は最初のオールドファームを迎えた。

ただこの試合は彼にとって良いものではなく、ホームのセルティックパークでの試合にもかかわらず、1-4でレンジャーズに手痛い敗戦を喫した。

その後4試合勝ちに見放されたが、彼女の家族の元に戻ってこれてよろこんでいるステインの妻、ジーンは、このころの夫のパークヘッドでの困難をのちになって知ったのだが、夫が決して家に帰っても仕事での問題を持ち込まなかったため、全く気づかなかった。
その2へ続く