Hail Hail

第4章  ジョックって誰?  (原題:Jock Who?) その5

 

ステインがセルティックに加入した時期は、熱狂的なファンさえすくませるようなリーグ記録を作ってしまい、クラブが再建を検討せざるをえなくなった時だった。

セルティックはその時リーグ16チーム中なんと12位まで落ち込み、過去11試合で10勝ち点(当時は勝利が勝ち点2)しかとれていなかった。(3勝、4分け、4敗)

敗戦と低迷による痛みはほとんど耐え難いまでになり、ピッチ上での不満は厚みを増し、サポーターはどんなことをしてきてどこへ向かっているのかを理解しているクラブのボードメンバー(上層部)から、ポジティブでクリエイティブなサインを見せることを要求した。

その時ボードが知らせてきたのは、クラブは、ほとんど無名で、誰も知らない街の誰も知らない国のリーグで、その国の人たちは卵の形をしたボールを扱うゲームに熱狂している(=ラグビー)ところから選手を獲得したことだった。

この獲得は友人を得るためのものではなかったが、人々を影響した。

もし、何らかの疑いがバーンバンククロスとその周辺であるならば、宗派分裂の反対側では、多くのセルティックへの支持が、不安の増大と、すべてを理解するのにもがいていることで恐れおののいているといったかもしれない。

これは確かに本当でセルティックは負傷による選手枯渇と、どんな状況でも自信に影響しないように、単にバックラインへの補強のために守備的な選手を契約したかったと明らかにした。

すでに戦後なのにもかかわらず、南へ下がってノンリーグの中から新人選手を獲得することは、他でもなく、セルティックは、未だ戦後直後にあった緊縮財政措置下に置かれているような印象を示唆しているようだった。

1965年2月1日のデイリーレコード紙で受けたインタビューで、当時セルティックのチェアマンだったボブ・ケリーは、ステインという塵(おそらくカソリックの中でのプロテスタントの存在を塵と呼んだのであろう)が長い間安住した後に、この移籍は豪華な賞品をもたらした。と認めた。

”私が、彼をウェールズの未開のノンリーグフットボールからスコットランドへ連れ戻したんだ。実際クラブは彼を連れ戻したことでほとんどボイコット騒ぎになったんだ。私は彼を連れ戻したことが正しかったと証明したよ。”と語った。

”ボイコット”という単語は、20世紀のスコットランドフットボールを代表する一人であり、クラブの内側からか外側からかどうかであっても、クラブについてのどんな発言をも注意深く発言しているセルティックのチェアマンのボブ・ケリーにとって軽く使われていたわけではなかった。

しかし、状況の組み合わせは、ステインをセルティックにもたらした。それは特別夢のような神業、というわけではなかったが。

ハミルトンで泥棒被害にあったのは、ステインが家族と離れて放浪して深く不安定な生活を強いられていた。という、グリブンは明らかに独自の記憶を持っていた。
ステインは選手が負傷したのと同時に、ジャケットを脱いで控えの選手と一緒にウォーミングアップを開始した。

パークヘッドに彼が来たという光は幸運をもたらすひらめきになるのか、もしくは他の選手と同様に、神の聖なる介入の結果なのか明らかになる。

ステインの移籍にどんな解釈があろうとも、ボブ・ケリーは、非常に救われていたことは明白だった。

もちろん、ケリーが言及したボイコットの可能性に関して、セルティックのサポートが、ベルファストのシャンキルロード(ベルファストの非常に強いプロテスタント地域)から、直接輸入しているのと非常に似て、バーンバンク出身のプロテスタントの選手と契約したことを気づかれないで済むわけがなかった。

そのことが、不安の一番上にあるかどうかは、全く明らかではなかった。

はじめは確かにサポーターが意気揚々と鼓舞をしていたわけではなかった。

たとえセルティックの伝統が、”どんな宗旨、信条を持っていても、常に誰に対してもドアは開かれている”で、さらにすでにプロテスタントの選手、例えばバーティ・ピーコック(DF、北アイルランド出身で318試合出場)やボビー・エヴァンズ(DF、元スコットランド代表、384試合出場)が、所属してるとしてもだ。

さらには、ステインの素性にも軽く扱われなかった。サポーターたちは単純に、ステインが安い選択のように思えて不快だったのだ。

ステインを出迎えて、契約時に彼の隣で一緒に写真に収まっていた当時の監督は、スコットランドフットボールにおいて最も控えめな、ジミー・マクグローリー(セルティックの史上最高得点者、15年間で378試合出場、395ゴール)だった。

彼はオールドファームの政治の渦の中でも存在し、常に愛想よく、紳士的で礼儀正しい威厳ある振る舞いは、独裁的なボブ・ケリーと対照的だった。

セルティックパークでマクグローリーにあった時、彼にとって生命維持装置のように常に離さない、パイプたばこを使いながら、常に微笑みを浮かべながら迎え入れてくれ、その時実は会ったのが誰だかわからなかったのだが、あたかも、ドレッシングルームに行ってボールにサインを書いてもらってくるのを待っている感じの良いおじいさんと見間違えるに違いない。

ショーン・ファロン(アイルランド出身のDF、254試合出場、地元のスライゴ・ローバーズのレジェンドでもある)によると、マクグローリーがセルティックの主将だった頃、ドレッシングルームでのチームトークは、リンカーン大統領のゲティスバーグ演説(人民の人民による人民のための政治)を思い起こさせるものだった。

「この試合は、難しい試合になるだろう」という言葉は、彼が奮いたたせるのと同じように使われた。

だから、ケリーは、たとえ選手を選考することにおいてさえも支配的な立場だった。

セルティックを去った後に、ジョン・マクフェイルは、あの頃はアウェーゲームのさいに特定の儀式が行われたと語った。
”アウェーの試合に起こっていたことは、ボブ・ケリーとジミー・マクグローリー、そして多分他の1,2人のディレクターが、ドレッシングルームのトイレに入って鍵をかけ閉じこもるんだ。

選手全員は、ドレッシングルームに座って待ち、クラブからの発表を待つんだ。

彼らが出てくるとジミーが、選手の名前を呼び始めるんだ、それだけだよ。ただ名前を読まれて、そして呼ばれたらぐずぐずせずにやるべきことをやるんだ。(試合に出場する)

ある日、骨に異常を感じ確実に試合に出られないと思った時があったんだ、重心をかけてプレイをしていたので悪化させてしまったんだ。

まあ、それが全く驚いたことに、その日ジミーは自分の名前を呼んだんだ。
その時チェアマンがトイレから出てこないのに気づいたんだ。後で彼が答えて知ったことだけど、ボブは、その日腹痛による生理的欲求でトイレから出てこれなかったんだ。

ジミーが読み上げたチームはトイレで選んだものではなかった。彼は間違えて自分の名前を呼んだんだ。
チェアマンがいなくなってから誰もジミーを正す人はいなかった。

私は他の選手と同じようにストリップを脱ぎ、ボブ・ケリーが気付く前にピッチへ出て行ったんだ。ちなみにセルティックはその試合に勝ったよ。

私は、チェアマンの下痢のせいでプレイせざるをえなかったんだ。今では考えられないけど、その当時はこんな感じでクラブは運営されていたんだ。”

ステインは彼の新しいクラブが、全てうまくいっていないのを知るのに十分な洞察力を持っていた。
しかし、彼にとっても人生を変えるオファーに飛びついていることから、何も彼が変えられるものはなかった。

彼の人生に非常に重要な特別な段階で、他の人の不運に費やすことに、彼の幸運を分配することは確かに本当だった。

確かに、その運は、エリザベス王女(当時)が、父親のジョージ4世の死によって、ケニヤのツリートップホテルの彼女の部屋で、自分が女王になると知ったのはほんの数ヶ月後のことで、そのことでもたらされることになったのだ。

第5章へ続く。