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第4章  ジョックって誰?  (原題:Jock Who?) その2

 

ステインのラネリーとのそもそもの接点は、ローバーズの元同僚のドゥギー・ウォレスだった。彼は、スコティッシュフットボールシーンにおいてトラブルメーカーでドレッシングルームで扇動的、という印象を与えていた。

ウェールズの街で選手兼コーチをしており、1949-50シーズン終了後、サザンリーグに昇格後選手補強の必要性に迫られ、ウォレスはラネリーの監督のジャック・ゴールズボロにスコットランドまで旅をするのは時間の無駄じゃないよと勧めた。

ゴールズボロはスコティッシュの選手を並べて選抜していた。ステインは別として、のちに獲得したダンディーユナイテッドから、ニーリー・フレック、マザウェルからデイビー・マジー、前アバディーンのボビー・ジェフリーズ、そしてアルビオンローバーズからラッチー・マキネスが呼ばれていた。

彼らは全員、そのステージにおいて、鍛錬されたプロの選手で、ひとかたまりに集まる姿を”ブーツを持った旅行社”と表現されていたかもしれない。

もし、彼らが”スコティッシュマフィア”と呼ばれていたとしたら、疑いなく”Capo di tutt’i capi”(ボスの中のボス)と呼ばれるのはその外見からもほとんどすぐにステインになるに違いなかった。実際、彼は合流した後すぐにキャプテンになってたように。

彼の最初のゲームにおいて、彼は、町に入ってきた新参者としては、見事にこれからの序章とも言える結果を出した。

スコティッシュデイリーエクスプレス紙のジャック・ウェブスターによると、1965年の5月、彼が初めての町に入った時の紹介説明は、鉄鋼労働者でラネリーで1919年から36年まで700試合出場したケリーエバンスが追憶したところによると、

これらのスコットランドからやってきた選手たちにエバンスは、疑念を持っていたのだが、しかしながらその疑念は吹き飛ばされたそうだ。

”ラネリーは長い間、荒れ果てた荒野にいたかのようだった。(洗練されず、ただロングボールを蹴り合うようなフットボール)、しかし、ステインがやってくると、新しい精神を植え付けてくれた。

我々は、より洗練された高いレベルのフットボールをプレイすることになり、町は今までになかったようにフットボールに熱狂したんだ。

そしてジョックの最初の試合は7-1で大勝したんだ。彼はボールを持つと素晴らしいわけではないが、何人かの選手が言うには、彼は左足だけでプレイするけど、我々がまさに欲しがっていた、本当に良いソリッドな選手だったんだ。
彼はすごく人気があったよ”

8月26日のザ・スター紙では、”ステインはしばしば、プレーが遅くて良くないとされるスコットランドでのプレイスタイルを持ち込んだ、(イングランド、ウェールズは当然ながら伝統的なキックアンドラッシュ=縦ポンサッカー)選手たちの早い判断と完璧なボールコントロールと冷静さが、相手チームを欺いた。”

彼は、身体的欠点があるにもかかわらず、より高くジャンプして空中に抜群に強く、滅多に競り負けないという技術的な側面を証明した。

この事は、彼がプレイした評価できないほどに最も重要な試合の一つで証明された。

1950年の10月のFA カップで同じウェールズのマーサー・ティドビル相手に13,000人が集まり、ステインの目の覚めるようなヘディングによるゴールで5-5の引き分けに持ち込み、試合はクラブ史上最も驚くべき試合の一つとして記録された。さらに再試合では2-1と勝利し、ステインはサポーターが勝利を祝い、「小さなソースパン(ウェールズ語でSospan Fach、Little Saucepanというウェールズのフォークソング」を大合唱しているのを聞いた。

Sospan Fach(ラグビーのウェールズ x ニュージランド戦の前に行われた)

 

この歌い方はラナークシャー周辺で聞いたどの勝利チームサポーターが歌う歌い方とは違っていた。しかし、もしそれは彼とクラブのために繁栄の新しい時代の到来を告げる鐘が鳴っているようだった。そして、それはまったくあてにならなかった、なぜならば、他の状況が彼の新たに見つけた自信に被害を与え始めていた。

ラネリーは次のラウンドでブリストルローバーズ(現イングランドリーグ1、3部)に敗れてしまった。しかし、2度目のリプレイで単に士気を下げてしまった後のことだけだった。

その後、クラブのフットボールリーグ加盟の申請書が否決されてしまったため残った選手はステインとドゥギー・ウォレスの二人だけになってしまった。

ステインは袋小路にはまってしまった。クラブ自体の財務能力についての噂が表面化し始めた。彼らにとって最悪なことに、財務に関して、不正計上が発覚されていた。チケット予約の改ざんが行われていたのである。

たくさんの憶測が飛び交った。ブリキ缶の風呂の楽しみでさえ慰みにもならなかった。

給与やボーナスに対する異議が選手の間で噴出した。ラッチー・マキネスはバス・シティ(現在イングランド6部)戦で後半にピッチに戻るのを拒否した。

それに加えて、ステインはあるビッグクラブ、考えられるのはウォルバーハンプトン・ワンダラーズ(現在チャンピオンシップ)から移籍のオファーを出されていたが、クラブはこれを却下したと知った。(ウルブスは、その後の彼の選手キャリアの間ずっと獲得しようとしていた)

ステインは自分の落胆ぶりを隠すことはできなかった。彼の姿は、スコットランドから移動したのは本当に間違いだったかどうかを自身の証明で明らかにし始めた。

ある、サザンリーグの首位、マーサー・ティドビル戦でステインは殴り合いの乱闘に巻き込まれ、退場処分になってしまった。その時の追加処分で罰金2ポンド、出場停止28日を言い渡された。

 

その3へ続く