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第4章  ジョックって誰?  (原題:Jock Who?) その1

 

あらすじ:アルビオンローバーズで8年間を過ごし、元同僚に誘われ、新天地のウェールズでフルタイムプロとしてのキャリアを踏み出したものの、順風満帆というわけではありませんでした。最初に発覚したのは前所属のアルビオンローバーズとの移籍条項に関する規約違反問題が紛失し、さらに所属したラネリーがフットボールリーグに加盟できない、さらにはスコットランドに残してきた家族のことなど、1年間の間で様々なトラブルに見舞われたのであった。

 

ラネリーはかつてケルト人の船乗りの交差点だった。エキゾチックな場所でもなく、有名な中心地でもない。
ただ、歴史的にセルティックにとって非常に重要な、マイナーな道から来た男が、大通りへ、クラブの歴史の転換点となった場所だった。

しかし、その理由からこのウェールズの小さな町は、クラブと人を調べるときに魅力的に極めて重要な町として残っている。

実際、すべての付随する問題とともに、ある幾つかの産業的特徴において、ラナークシャーの一部を映し出していた。

1950年にステインが人生で初めてフルタイムのフットボーラーとしてやってきたとき、彼らは無煙炭炭田のために、ブリキ製造工場と造船ドックを閉鎖していた。

ウェールズは産業の変遷期を迎えていた。町の未来は暗澹としていた。

彼が主張が大きく欠けた地域の労働者階級の倫理的体系に簡単に溶け込めたので、人々はほんの彼自身の親類縁者のようにしか感じなかった。

彼が滞在初日の夜、彼はマンセルストリートの宿の女主人、リジー・ウィリアムズに入浴について尋ねたとき、彼女は、テーブルの下のブリキの缶を指差した。

もっともなことだが、彼女は、ステインは最初、驚いたが、最後には楽しんでいたと、話していた。

ステインは風呂でゆっくり浸かるのを好んだ。特にバラッドのたくさんあるレパートリーを大声で歌うことが好きだった。
ブリキの風呂は彼の情熱をカーブさせるようなものではなかった。

彼は洗礼されることに期待してなかったが、彼の基本的な素朴さが、初めて家族と別れて個室で探求することが、快適さを生み出していた。

ラナークシャーの炭鉱は、今は確かにもう繰り返すことのない単なる思い出になった、彼が残してきた移籍にまつわる失礼なことを言われることなしに、そこから外にいて嬉しいことを彼はすべて明らかにした。

これによって27歳にして初めて彼はプロの選手となったのだが、英国のフットボールリーグの上層部から笑いものにされるだけしか価値のないリーグでのアルバイトだった。

しかしながらこの軽蔑は、FA杯(例として、ヨーヴィル・タウンやコルチェスター・ユナイテッド、両チームとも現在はイングランド リーグ2=4部)において、より名門の敵に対して予想を覆す、ノンリーグ・クラブの健全な伝統があったので、少しの不安も混ざらなかった。

これらのFAカップでの成功はラネリーも例外ではなく、ノンリーグクラブのチェアマン達の野望に勇気を与えた。
クラブ自身は、フットボールリーグの資格を得られるための下位組織であるサザンリーグに所属していた。

結局、サザンリーグクラブである、コルチェスター・ユナイテッドとジリンガム(現在リーグ1、3部)が、昇格し、フットボールリーグの地位を手に入れた。

クラブを動機付けさせる論理は、そのコルチェスターやジリンガムの先例からだったが、そして、クラブのチェアマンがラネリーFCは今まで昇格できるような財務状態ではなかった、と発表したことにもあった。

しかし、ある辛辣な背景が積み重なっていた、と1950年、7月15日のエアドリーアンドコートブリッジアドバタイザー紙は、報道していた。それは、アルビオンローバーズの”ボゴタでのトリック”を引き起こしているのはラネリーだと非難するものだった。

エアドリーのフォワード、ボビー・フラベルが前所属チームに補償金が払われずに、コロンビアの首都ボゴタにある、ミリオネアーズへの移籍してしまったことに関連しているとみられた。

このリポートでは、ローバーズに対する見方はクラブはひどく釣り銭を誤魔化された、とあったが、それよりすでに、全員がステインが出ていくことを認めていたことが反映されたとあった。

ステインは週給4ポンドのオファーをローバーズから受けていたが、これを断り、ラネリーから週給12ポンドのオファーを了承した。(有名なレンジャーズのキャプテン、ジョージ・ヤングでさえ、シーズン終了時にはもっと高額を要求していたが、この当時週給12ポンドだった。)

9月3日のスコティッシュサンデーエキスプレス紙によると、ステインがスコットランドフットボールから出て行ったことは、スムーズにことが運んでいたかもしれない。ステインの移籍について双方のクラブに基本的な違法性に、両方のフットボール協会も注意をしなかった。

”不思議なケースで消えたセンターハーフ”(=ステインの移籍)として扱われた。

マスコミは、他の人も同様、このすぐ目立つ選手が、どこに消えてしまったのか不思議がり、すべてそして種々様々に明らかにするためにFIFAが1946年にひとつの協会に所属しているいかなる選手でも、他の協会に移ってプレイする場合は、前所属の協会から明文化された証明書の授受が行わなければならないと、ルクセンブルグで設立した規定で追求することに興味を持っていた。

この時のはステインはそれを持っていなかった。

ローバーズはステインをその時、ウェールズの担当者へ情報を渡したとスコットランドフットボール協会に報告した。ステインはその後歓迎されざるものとして扱われた。

明らかに、彼はそのような移籍に関しての規則を完全に知らなかった。しかし、彼も現在、命令に従わなければならなかったということを知っていた。それはラネリーも同様だった。

ステインは全くの罪の意識なく、すでに数週間ラネリーのチームで試合を行っていた。だからクラブは彼を選抜するのを問題が解決するまでやめておいた。

ローバーズは、少し声を潜めた感じながら、彼らとは移籍補償金の充当後、移籍を合意したと宣言した。

9月16日、ラネリーはエブブヴェール(ウェールズのクラブ)との重要なFAカップの対戦を迎えた。

試合の重要性から、大会を勝ち進むためには、金銭的利益(ボーナス)があることが是が非でも必要だったのにもかかわらず、ステインは最初の頃の試合ですでに良い印象を与えて貢献していたのだが、この試合には姿を現せなかったことはメディアを大いに驚かせた。

ステインは同日ローバーズとの彼の移籍を合法化する書類の充当と750ポンド近くと言われる違約金の返済をして和解するためにコートブリッジに戻ってきていた。

コートブリッジに滞在している間、彼はクリフトンヒルのスタンドに顕著に座り、以前の同僚がスターリングアルビオンに1-3で敗戦する様子を観戦していた。

エアドリーアンドコートブリッジアドバタイザーによると、彼の移籍騒動は、ある種、地方の重大な裁判事件にもかかわらず、実際は、クラブを去る彼に批判的で、彼の存在についてや和解についても言及されていなかった。

あたかも彼の存在がエアブラシで修正されたかのようだった。

明らかに、コートブリッジにいる誰もが、名声を得るプレリュードであったことなど知る由もなかった。(面白いことにラネリーの地方紙、ザ・スターによると、新加入選手の紹介として、ジョン・(ジョック)ステイン、27歳、6フィート(183cm)、13 ストーン(82kg) 、チャールトンアスレチックも興味を示していたが、アルビオンローバーズと合意に至らずと報道されていた)

 

その2へ続く