Hail Hail

 

第3章 あるローバーズの選手(原題:A Rover) その4

 

アダム・マクリーンの視点によると”狡猾さ”はそれほど強い言葉ではなく、”邪な”の方がもっと適切な言葉かもしれない。

“1948年に一部リーグへ昇格し、我々は全員、週給9ポンドで契約を更新したんだ。我々はもっと増額を望んだが、ジョックは、これは得られる最高額だと納得させたんだ。

給与について不満が上がった選手が何人か出た時、(選手側である)ジョックがなだめていたんだ。その後、どうやってかは覚えてないけど、ある選手がジョックの給与明細を手に入れて、見てみるとなんと彼は週給10ポンドで契約していたんだ!

彼がそんなことをしていたなんて信じられなかったよ。その後しばらくはドレッシングルームで彼に対する恨みが渦巻いていたね。

しかし、彼は頭の切れる饒舌さと力強い個性を持っていたから、この状況を乗り越えていたよ。”

この性格は、1947年の2月にデンズパークでダンディーFC相手に対戦した重要なカップ戦のボーナスをステインと他の選手が要求した時によく表されていたようだ。

要求は否決された。そしてその後に起こったことは試合に駆けつけた大勢のコートブリッジのサポーターが簡単には忘れられなかった。

ウィリアム・ウォーカーはこう語った。

”ジョックは全く相手選手の足元にチャレンジしなかったんだ!ジョックだけじゃない、ほかの選手全員だ。だけど、特にジョックだ、だって彼がリーダーだったんだから。信じられないぐらい彼らの試合はプアだったよ。絶対に忘れられないな。

ファンは怒り狂ってたよ。

ジョックにとって同じことが二度とやらないとは思わないな。

クラブの誰がどんな言い訳をしようとも関係なかったが、ファンの気持ちは、選手たちが気遣ってくれたことで修復したんだ。”

しかし、この試合でセンターフォワードでプレイしたアダム・マクリーンは、このことに対する見解を感情的に論じた。

”この試合ではハードにトライできなかったにちがいない。そしてステインは決してそのようなことをしようとしなかったんだ。彼はうちのめすことを嫌い、倒れることを嫌った。サポーターは簡単に忘れてるんじゃないか、ダンディーFCは全員我々よりもはるかにすぐれている強豪だっったってことを。

いいや、ステインは生まれつき挑戦者だ。そんなこと(手を抜いた)を彼はする人じゃないよ。”

しかし、一般の認識を削ぐのは難しかった。この日の選手たちのパフォーマンスと試合は、クラブの歴史の汚点として記されている。

その試合よりもおそらくファンの期待を受けて影響した試合は、その前のラウンドに行われた彼らの最も激しく、伝統的なライバルのエアドリー(現在のエアドリーオニアンズ)との試合だった。(3-0でローバーズが勝利)
ステインはピッチ上での宿敵ボビー・フラベルと相対し、彼に仕事をさせなかった。

エアドリーのセンターフォワード(フラベル)は、当時スコットランド国内でこのポジションで不世出の選手と言われていた。

彼の多くの名声を集めていた期間、スコットランド代表がウェンブリーでイングランドと対戦した時にもプレイしたことも含め、コロンビアのミリオネアズではアルフレッド・ディスティファノ(アルゼンチン出身のイタリア代表ストライカー、レアルマドリッドのレジェンド)とも一緒にプレイした。

フラベルはいつもピッチでは最速の選手だった。

”ジョックはタフな選手だったが、決して汚いプレーや、それに近いこともしなかった。 彼には弱点がある、それは彼の右側だ、いつも彼に対してはそこをつこうとするんだ。そしてももちろん彼にたいし優勢になり、困らせるんだ。

彼は俺を捕まえるためには、蹴りを入れてでも止めたくなるだろうと思う。でも俺は彼より全然速いんだ。”とフラベルは語った。

もちろんこのスコティッシュカップの試合でステインがフラベルに仕事をさせなかった時は除くことになるのだが。

残念なことに彼らの勝負はピッチの中だけじゃなく、墓の上でも繰り広げられた。
ステインが、明らかなやりにくさを経験して、スコットランド代表監督の任期期間中に成功できずにいた時、タブロイド紙がフラベルにステインの戦術について尋ねた。

タブロイド紙はフラベルの酷評した批判を大々的に取り上げた。

ステインが亡くなった後、友人がフラベルに葬儀への参列を打診した時、彼は断り、”彼に対して私が発言した後に、葬儀に参列していたら、偽善者になっていただろう”と答えた。

アルビオンでプレイした8年間の間も、ステインはボズウェル炭鉱で働き続けた。彼は、現場監督とフットボールの責任を果たすために、作業シフトを調整していたようだった。

例えば、夜勤は基本的に金曜日に行われた。彼とクラブにとって、1948-49シーズンは、クラブの歴史上4度目の1部リーグに昇格したシーズンだったので、特に重要だった。

(一部リーグに昇格したことで)背番号が、ストリップに縫い付けられたのもローバーズにとってこのシーズンが初めてだった。

開幕3連敗を喫した後、ホームのクリフトンヒルで、25,000人の観客の前でセルティック相手に3-3の大激闘を演じたのにもかかわらず、そのシーズンは悲劇的な成績で、しかもディフェンスを統率しているステイン個人にとっては大恥をかく30試合で5勝しかできず、105失点を喫してしまった。

もちろん、シーズン終了後にはストレートで降格してしまった。

ステインは、非常に幻滅を感じていた。あまつさえ、チームはトップリーグに昇格して挑戦してたのにもかかわらず。
しかも彼は鼠径部に怪我を抱えており、かなりの期間チームから離れなければならなかった。

彼は先発から外れることも多くなった。それが幸いしてか、エアドリーアンドコートブリッジアドバタイザー紙が、”悲惨な午後”と報道したアウェータインカッスルで1-7とハーツ相手に大敗した試合に欠場していた。

ドレッシングルーム内の不満は明らかだった。

特に彼と他のチームメイトを驚かせたのが、クラブは彼のキャリアにとって有益になったであろうキルマーノックからのステイン獲得の打診を断ったことだった。このことは彼をイライラさせた。

このことがきっかけで彼は他の人、例えばチームメイトのドゥギー・ウォレスなどから他のもっと緑色なピッチ(魅力的なクラブ)の話を聞き始めた。

ウォレスは、仲介役を買って出て、ウェールズのノンリーグクラブ、ラネリーの代表者に来てステインと話すように説得した。

彼らは銀の下を持つ有能な弁護士は必要なかった。ステインが気にかけていることはすべて伝書鳩による通信で完了していた。それは、すでに彼が出発する気でいたからだった。

そして、ついに彼は実際に出発した。クラブが1ペニーも取引することなく。たとえ彼が来るべきシーズンにローバーズの選手登録に乗っていたとしても。

スコットランドのナショナリストがウェストミンスター寺院から”スクーンの石”(代々のスコットランド王が戴冠式を行った石で、1296年にイングランド王によって戦利品として持ち去られてしまったが、1950年に奪還事件が起こり、運搬途中に石は二つに割れてしまった)を奪還した年と同じ年に、ステインは違法ながらもスコットランドを去り、国境を超えた。

第4章へ続く。