Hail Hail

 

第2章 暗闇からの蜂起(原題:Rising from the Dark) その3

 

我々の何人かが地平線の上に見えるステインを呼び戻していて、彼の黒いコート(彼の目に悪意を持って我々へ向けてことばの一斉射撃を放つために)を着て、我々の方へ足を引きずりながら向けっていることに、ハリーは確かに全く正反対の絵を描いていいた。

しかし、他の目撃者は彼の言ったことの証人になった。

ジム・ウォレス、バーンバンク地域の歴史家は、彼が少年の時、20歳の時のステインを知っていた。

”ジョックは、子供達に話すときに時間をかけて言葉を選んで話す人だった。
多くの大人たちが子供達に無神経に話すのとは対照的に僕たちにフットボールについて時間をかけて話してくれたんだ。

ステインと自分の父親はお互いギャンブル好きで知り合いだったんだ。自分がクロスに父親に会いに行く時はいつでも、賭け事屋の前で列をなして並んで居るんだけど、ジョックは僕たちによく話しかけてくれてジョークを言ったりしてくれたんだ。

僕の彼についての思い出は、謙虚でちょっとシャイな若者だった。

ハリー・スティールは、

”ジョックは夜友達と踊りに外出するのが好きだったんだ。でも、時々彼を探しに行った時、彼はフットボールコートで子供達にボールの蹴り方を何時間も教えていたんだ。彼が(プロとして最初に所属した)アルビオンローバーズでプレイしていた時でも、別々のソーシャルクラブの間でのサンデーパブゲーム(アマチュアの草サッカー)で俺たちと一緒にプレイしていたんだ。

彼はそう思わなかっただろうが、あたかも彼の人生が何かに委ねられているかのように彼は正しく向かっていってたんだ。

炭鉱内での地下でのチャレンジは彼にとって洞察力と男性としてどう行動するかを備えられたに違いない。
そして彼は、宗教の名の下に、どんな表面的な辛辣さがあったとしても、地下で働く事の危険性は、どこの学校に行っていたとか、重要な苗字はなんていうのかという問い合わせする必要がなくなるほどのものであるという事を習った。

いつどこにでもある死への恐怖は、彼の心に深く刻まれた。

例えば1942-3年の3ヵ月の期間で彼の実家からクライド川を隔てた反対側にあるボズウェルキャッスル炭鉱で7人が亡くなった。その炭鉱は彼の炭鉱夫として最後の鉱山となった。

しかし表面上は、政治的狂気がセクタリアニズムを恒久化させるために存在した。

ハミルトン公の政策を確実にするために、一つの鉱山につき、プロテスタントかカソリックの労働者を圧倒的にしていた。政策は特定の地域の集結を促進した。例えば、バーンバンクは多くがプロテスタントだし、ベルズヒルはカソリック,ラーカルはプロテスタント、ブランタイアはカソリックというように。

お互いのコミュニティが、ほとんど慈悲深いかは疑わしいが、稀に暴力的でなく距離を置いているため、ステインが思春期から大人になるまでの成長の背景に、どの程度影響を受けているか実質分析できない。

ステインは学校を卒業して数ヶ月だけ彼の父親を追って鉱山で働いていた時に、厚かましく搾取された一人になった。
彼は両親が明らかに学校生活を続けて欲しいと願っていたのにもかかわらず、家族の少ない収入を補うために学校を出て地元のスティーブンソンカーペット工場に数ヶ月働きに行っていた。

実際に困窮している人々にとってこの時代は簡単なものは何もなかった。

労働争議がこの頃の鉱山にははびこっていた。ステインが生まれる前の1921年に長期のストライキが行われ,1日9,000食が、バーンバンクのスープ給仕所で配給された。

ステインが4歳近い時には鉱山一帯で大規模なストライキが起こり、6ヶ月にも及んだ。ハミルトンアドバタイザー紙が記録しているところによると、ブランタイアでは毎日炭鉱の山積みになったところから石炭や支柱を調達しようとせわしく従事する男女が見られ、何人かの男たちは、わずかな小銭を得るために彼らの限られた手段を増やすべく両方のバッグを売っていた。

だから、世界の不透明性に敏感な人は疑いもなく、できるだけ外に出て結構な金を賃金として稼ぎたいと思っただろう。

ステインの自分の炭鉱にあるルーツに対するリスペクトは決して消し去ることはないだろう。

彼の生涯の友のトニー・マクギネスは、炭鉱夫時代を思い出し、1984-85年のストライキの時に、彼が運転していると、一台のタンクローリーが、石炭を積んだストライキのバリケードを突破して、レベンクレイグ鉄鋼所へ通り抜けようとしているところを車のビームで目を眩ませようとした。

そして同じ時代の別の時には、彼と私が時速90マイルで走る彼の車でドライブをしていた時、ファイフにあるホテルで行われるフットボールフォーラムに向かっている時、私が 彼がアーサー・スカーギル(イギリスの労働運動家で、当時全国炭鉱労働組合委員長、1984年から翌年にかけて炭鉱労働者ストライキを主導した)に対する嫌悪を吐き出した時、この産業に関わっている友人、知人や親類縁者に対する古い忠誠心を辛辣に表した。

“やつ(アーサー・スカーギル)は純然たるエゴイストだ。あいつは、労働者を泥沼の中に引きずりこんでいる。
もし労働者たちがこれを全てミック・マクガーイ(政治家、鉱山労働運動家、アーサースカーギルとは当時対抗していた)に感じるなら彼なら今すぐに全てのことをまとめられただろう。

ステインは相互に復帰したスコットランドの共産主義、鉱山労働者指導者を深く尊敬していた。

ステインがアルビオンローバーズでプレイしていた20代の頃、2週目に突入したストライキの時に、代表者のマクガーイにその週ローバーズでプレイして得た給与を渡していたほどだった。

このことは幸運にはならなかったようだが、その頃は最大でも数ポンドだったが、この気前の良さは、同業の労働組合主義者は決して忘れなかった。

彼の成功にもかかわらず、そのことは、彼が若い頃に明らかに政治的でなかった時でも、人生を通じて、彼が炭鉱で働く男に対する愛着から滅多に離れていくのは難しいことを示していた。

全般的に英国首相のトニー・ブレアよりスコットランドの社会学者、ケアー・ハーディーの精神に近いことを表していたかもれない。

 

ステインが炭鉱から離れることは避けれらなかった。

カーペットの横糸と縦糸の長い検査に取って代わる前はアーノック坑道の石炭運搬用馬車の馬の蹄とふんふんならす鼻だった。

彼は他の地元の炭坑より優れていた状況でまず第一にポニーと一緒に働いた。
しかし、アーノック炭層の開発がうまく行った時、彼は1943年に移動しなければならなかった。

バーンバンクの他の同僚と一緒にクライド川を越え、ほとんどデビッドリビングストンの生家の近くにあるボズウェルキャッスル鉱山の第1、第2坑道で働くことになり、1948年には、近所の暑くしかし乾燥したアーノックに取って代わり、ジメジメとして濡れた作業場の小修道院鉱山に移った。

”ジョック”(ステイン)の主な仕事は、俺たちが作業をする坑道の最先端につながる空のハッチで俺たちを送り届けることだった。とハリー・スティールは説明した。

”俺たちは彼らを全員送り戻し、ステインが坑道から人が空になるのを指揮して、さらにまた送り戻すんだ。彼はそれで少し利益を得ているんだ。 彼はその場で動く必要なく食べ物を得たんだ。食堂から、パンとハムがリフトに乗って降りてくるからだった。我々には一切得られない焼きたてのパンを得ていた。

しかし、彼はすべての列車の運転手も知っていた。その当時彼はアルビオンローバーズでプレイしていて、俺たちがバーンバンクに小さい蒸気機関車で戻る時にアーノックの彼の家の通りを通り過ぎていたんだ。

運転手は彼の家の近くで減速し、彼を降ろしていた。俺たちはさらに遠くのバーンバンク駅で降りなきゃいけなかったんだけど。

彼は手伝ってもらうために話すコツを得ているようだった。”
その4へ続く。