Hail Hail
第2章 暗闇からの蜂起(原題:Rising from the Dark) その2
ステインの父親は明らかに彼がフットボールで生活するという希望を持っていた。地元のブランタイアヴィクトリアで
プレーし、ゆくゆくはステップアップしてレンジャーズでプレイする。
ヴィックス(ブランタイアヴィクトリア)もレンジャーズも同じく赤、白、青のクラブカラー、これらの色は、”ジョージ(キングジョージ?)のビジョン”として広く普及していた。
1940年に子供向けと仕事のフットボールをプレーした後、ステインは青ではなくその黒と白のチームカラーからバンビーズと呼ばれていたバーンバンクアスレチックと契約することを決心した。それに対し、裏切り行為だと言わんばかりに父親は腹を立て契約するのを阻止しようとした。
クラブからの職員が彼の父をなだめるために1本のウィスキーを持って彼の家へ現れたとき、トライアルから戻っているバスの中でプレッシャーをかけられてサインさせられそうになっていた、彼の息子が利用されたと感じて怒った両親によって荷物をまとめさせられ追い返させられた。
契約書類はゴミ箱に投げ込まれ、彼はアスレチックでプレイするという夢は叶うことはなかった。
そして彼はほとんどすぐに彼の親が認めている赤色のカラーをまとっているヴィックスへ行った
それは、ステインが独立心と明確な計算で自分の人生の行為を維持していく性格を見せているのにもかかわらず、自分の父親に最大の敬意を払っていることはとても重要だった。
そこにいた彼は、彼の人生を失速させているところから一歩を踏み出すことが、他の誰が何を言おうと適していると感じていた。
この服従をしなければならなかったことは、最終的には、ステインの風習や習慣に対して無頓着なことが、より伝統的な悪意のあるセクトの考え方に引き込まれることから守っている事実から落とさない最初の証明になった。
第3者にとって、彼らのユニフォームの色に対する彼らの神経質さと背景は、異様だろう。
しかしバーンバンクではなく、青(プロテスタント)や緑(カソリック)をアイデンティティとして認識することは、コミュニティの中で拡大的にプロテスタントであるか、もしくはカソリックの境界線と取られていた。
プロテスタントとカソリックの社会的亀裂は一方では、各宗派内での相互補助によってスラム街の発生を防いだが、もう一方では地域によって自然な引力を引き起こしていた。
大多数のプロテスタントは彼らの集会場所として村の中心にあるバーンバンククロスを利用していた。
ある時は馬鹿話のため、ある時は賭け事屋へ通るために、ハーフアンドハーフのパイントを周辺のパブで飲むのに駆け込むために、さらに7月12日のオレンジ公の戦勝パレードを見るために、一方のカソリックは、公にグレンリーストリートの角にかつてチャペルがあったところに集まった。ここは通称”ローマ法王のコーナー”と地元の人に呼ばれた。(カソリックのアイコンはローマ法王)
7月12日の日以外、集会は十字架の囲んで行われている社会的交流を正確に映し出していた。
正式な手段でもう一方のセクト(プロテスタントかカソリック)と混ざることは出ることだった。もし、人生の中でセクトに深く染まってなかったら、一度深い心からの考察をした上でだが、別の地域でもう一方側のあるパブで、もう一方の人と一緒に飲むことを夢見ただろうか。
学校教育や、自助防衛組織のエリア内で、偏狭さの核となる無知を永続したことが、それぞれのグループを分断させた。
ステインの家族は忠実なプロテスタントで、そして、父親は熱心なレンジャーズファンだった。しかしそのことはもう一方(カソリック&セルティック)を忌み嫌って育てられた証拠の一片ではなかった。(彼らの宗教の教義と、応援するフットボールクラブは、そもそももう一方を嫌うこととは無関係だった)
さらにはオレンジオーダー(オレンジ公を支持する白人プロテスタント至上主義者=KKKとも繋がっている)とも連携をを示すものではなかった。そのことは後にステインはプロテスタントにもかかわらず、フリーメイソン(スコットランドで始まった友愛結社)のメンバーになったことからも現れている。
後に彼は公人として秘密結社に関係しているのは気持ち悪いと私に認めていた。
しかし、そのような環境で育つ青年が何らかの方法で所属するセクトの気持ちの熱狂に影響を受けないと思うことは愚かなことだった。そして、それは核の雲から放出されるストロンチウム-90が目に見えずに骨に染み込んでいくのと同様だった。
彼がその視点を持ってなかったと考えるのは甘い考えだ。
我々が彼の知っていることは彼がそこ渦中に決して入らなかったし、これらの問題とすべてのことを軽蔑して扱わなかったとするならば、彼の仲間らかどうやらちょっと違っているとみられていたことを指し示しているようだ。
元炭鉱夫のハリー・スティールはステインと同窓生でフットボールを一緒にプレイし、映画館やダンスホールの周りでバカをしたり、女の子を追っかけたり、ボーリングをしたり、しょっちゅう誘惑があるのにもかかわらず、ステインがソフトドリンクを頑なに飲んでいるのに、パブでビールを飲んだりした仲だった。
”彼が有名だった時に、ジョックについて書かれたり言われたりしたすべてのことを笑って聞いているよ”とハリーは答えた。
ステインがハードな男だと言われていて、ある人からは”暴君のようだ”とまで言われた。でも実際はバーンバンクでは決してハードな男ではなかった。彼が一度もジャケットを脱いで他の誰かと殴り合いをしたことなんて見たこともなかったしね。当時はいっつも喧嘩が起こっていたのに。
今みたいな汚いやり口じゃなく、みんな拳と拳で殴り合ってたんだ。その多くがプロテスタントとカソリックの間で行われたんだ。それだけじゃないけどね。
土曜の夜にパブにいる時は気をつけたほうがいい。たくさんの酒が飲まれる。その時に喧嘩を見ることができるだろう。そしてもちろん、ブランタイアセルティックとヴィクッスが試合をする時、ハイブランタイアからプロテスタントたちが、ローブランタイアからカソリックたちがやってきて試合後には信じられないほどの大乱闘による流血騒ぎになったんだ。
現在俺は、オレンジロッジ(オレンジオーダーの1グループ)のメンバーで、地元のバンドの中でフルートを吹いているんだ。
でも、ずっと、ジョックがカソリックについて一度も批判や文句を言ったことを聞いたことがなかったね。
そして神にかけてすべての彼の友人はオレンジオーダーだったので、カソリックについての文句や批判を言っていたんだけどね。
そう、もちろん、彼と彼の父親はレンジャーズファンさ、でも、それだけだ。いいかい、ジョックは決して誰に対しても酷いことなんて言ったことはなかったんだ。
ジョックを知っている俺に尋ねるなら、彼についてのすべてものは見ているし読んでいる。
彼がセルティックの監督になった時、俺は彼がちょうどユニフォームを着ていた時に彼がハードな男だったんだと思ったよ。
警察が彼らの職務をする時のようにジョックは彼の監督としてのユニフォームを着ていたんだ。
すべての下で信じられないけどジョックは本当に変わったんだ。(ハードな男になった)
彼は決して我を失うことのない本当に静かな男だったんだ。”
その3へ続く。