Hail Hail

 

第2章 暗闇からの蜂起(原題:Rising from the Dark) その4

 

時々賭け事屋も毎回ではないが同じことをした。
ステインが10代の頃から本当に人生を通してギャンブルにどハマりしたと表現するほどになったのはバーンバンククロスで育ったからだった。

このころは、街角の路上賭け事は違法だった。しかし賭け事に重度にはまっている人から阻止することはしなかった。
ステインは10代からそこで多くの日々を過ごし、地元の賭け事屋、ミック・ミッチェルと親しくて、つけられる列に集まるのを手伝っていた。

もちろん、賭け事屋はそれぞれ警察の動きを監視させるパシリの子供を抱えていた。

しかし、その策略はいつも成功するとは限らなかった。ほとんどがあくびまじりに誰にでも予測できるほど規則性を持っていたが、警察は1時間ごとかそれぐらいの間隔を置いて賭け事屋に並んでいる群衆を襲い、警察署まで連行しようとした。賭け事屋たちは、社会的汚名など微塵も感じさせず堂々と現れてそして、全員釈放された。

戻って彼らは次の集会までピッチに行った。そしてその偽善は全て続いた。

ジム・ウォレスは、ステインが警察から特別に大目に見てもらっていたので安全だった。と感じていた。
この地域の壮健な男性はほとんど、逮捕される経験が、男らしいと感じるために重要だと思っていた。

”ステインと俺の父親はなんでも賭けていた。たとえフットボールであってもね。彼は自分がフットボール選手だと思ってなかったんじゃないかな。もちろん彼は選手だったんだけどね。

このことはその時でさえ、彼の弱点になっていたんだ。それとは対照的に彼は酒飲みじゃなかった。

今、バーンバンクで禁酒することは大変な偉業なんだ。地域内で約3,000人も満たない人が暮らしているのに、20軒近くものパブがひしめき合って営業しているんだ。

時に飲酒は、とても厄介なものになりえたんだ。特に土曜の夜は、男たちが酔っ払って家に帰った時、家庭内、その多くは女性、にとっては、ひどいことをされる恐れがあったんだ。

その多くが、虐待だった。

しかしそんな中でも、彼の友達のほとんどが大酒飲みであっても、彼は決して酒に溺れることはなかった。絶対にね。

ステインの有名な絶対禁酒主義は、ある優れた道徳的見地から出たものだった。人生の中で社会的に大酒のみと一緒だったことは、メディアの何人かが、ヘビーに飲み歩いてふらつきながらチームのホテルに戻ってきたのを見て嘲笑することはあれど、説教することはなかった。

おそらくバーンバンク周辺での、過度な飲酒にまつわることを小さい頃から見ていたことが、先例に惑わされないことに影響している。

彼はさらに、どのように女性に言い寄らなければならないか、そして、あなたが誰と結婚するべきかという従来からある結婚観に従うこともしなかった。

1946年、10月3日、彼は20歳のジーン・トナー・マコーリーとギルモアメモリアル教会で結婚した。
カンバスラングにあるチップスショップ(フィッシュアンドチップスの店)で当時15歳だった彼女と出会い、彼より4つ年下だった。

彼らは結婚する前5年間付き合ったが、彼はその後彼女とその間に生まれた子供たちを熱愛した。

すべての書類は単純なものだったが、1940年代のバーンバンクではそうではなかった。
それはジーンがカソリックだったためである。

重く引かれた分断線は、通常結婚は自分の信条の中でするものと意味していた。
どんな形式であれ、特に結婚においてそのタブーを踏み越えることは、現在ではおかしいことであるが、(プロテスタントとカソリックの結婚は)当時はコミュニティによって避けられたいたことを意味していて、ある程度の道徳的な勇気を必要とした。

ハリー・スティールは、”もし、もう一方のコミュニティの男の子なり女の子とデートをしたいなら、メインストリートを一緒に歩くのを見られないようにしなければならない。安全の為にたとえ遠回りになろうとも、裏道を歩いて彼女を家に送り返さないといけないんだ。これはどっちの側でも同じさ。

もう一方の宗教の誰かと付き合うのなら、ほとんどの親が別れることを望み、”彼ら、彼女らから離れなさい!、彼らと一緒のところを2度と見るのも汚らわしい!”というのが普通の親は言うだろうな。

双方が交わることは多くの人にとってヒステリーにさせるんだ。そしてもちろん、もし、転向して自分の趣旨を変えるとするなら、寒空の中に放り出され、自身のコミュニティとの関係を断絶させられるだろうな。

もし、こんなことが自分の息子たちに起こったとしたら、彼らは二度とクロスに近寄らないほうが賢明だよ。”と説明した。

”Turning” という言葉は、取り立てて深い意味を持っているわけではないが、ここ西スコットランドでは、結婚の結果自分の宗旨を変えることは、裏切り行為のように見られていた。

ジーンの新しい夫(ステイン)よりもむしろジーンが宗旨替えをした時はそのようなことは何も起こらなかった。

プロテスタントとカソリックの混合結婚についての考えは彼を心配にはさせなかった、そして彼の楽天的な他の判断が地元でひどく目障りになったことをあらかじめ警戒していた。

もちろん、彼はすでに最初の地元のクラブ、バンビーズを選んだことで家族との関係に亀裂を生じる危険があった。しかし、結局ブランタイアビクトリアでプレーすることで、年代別のジュニアのチームにおいて優れた評判を得るとまではいかないものの、即座に頭角を現した。

ブランタイアビクトリアは、アイブロックス(レンジャーズ)とのパイプが見られるが、しかし、逆に、2人のセルティック監督と1人のセルティックのチェアマンを生み出した。それが、ステイン本人と、ビリーマクニール、そしてサー ロバート・ケリーであった。

しかしステインはフットボールの最高峰のレベルでプレイするにふさわしい素質を早くから見せていたわけではなかった。
彼は状況に応じて、タフなプレーもするし、有用で献身的だった。

バーンバンクガゼット紙によると、1941年の10月3日、”ついに金曜日に行われた中央リーグの会議で、ビックスのステインはピッチ内での暴力行為で14日間の出場停止処分が下された。”

ジュニアのフットボールの選手において現在では非人道的な罪として扱われるような行為もこの頃の選手たちは逃れられていた。ステインへの不特定な暴力行為によるまるまる2週間の出場停止処分は、最も厳しい処分の一つであり、それは彼がピッチ上ではお人好しでないことを示していた。

例えば、同じくガゼット紙によると、1942年8月22日に行われたヨーカー相手の試合では、ステインはクラブでの初ゴールをヘディングで挙げたが、記事から推察するに、試合中に線審が退場とならざるを得なくなった!

不十分な参考文献ながら、10月3日の日曜日を除き、ハミルトンアドバタイザー紙に幾分ひどい扱いを受けていたのだが、
”カークランドはセンターハーフ(センターバック)として大きな成功を収めていた。そして試合を通して単に歩いていた。彼と反対サイドのステインとダンは、例外的に彼の強いサポートを強いられていた。” とあった。

一つの事項を除いてパルスレーシングをセットするのは十分ではないと思うだろう。(この前2、3行の文意がつかめず。。。)

1942年の8月1日、ガゼッタ紙によると、その前の週ブランタイアビクトリアはファイブアサイド(5人制フットサル)の大会を催し、成功させた。
このようなプレシーズンの催し物は何も例外なものではなかったのだが、その頃は大会期間中、選手たちにより真剣に行われた。

しかし、この大会は別物だった。戦争が激化し始めたからである。

2、3チームは選手不足により参加ができなかった。

”困難さに打ち勝った!”ガゼットにはこう書かれている。

”マット・バスビー(当時ハイバーニアンの選手でスコットランド代表、マンチェスターユナイテッドを1968年ヨーロッパチャンピオンに導いた監督、ステインや、元リバプールのビルシャンクリーと同じく、スコットランド人)とともに、陸軍の5人の競技者がチームを組織し、もともと参加していた6チームとともに大会に参加した。

ビックス(ステインのいる)は、親切にもその陸軍のチームと試合を行い2-0で勝利した。書かれているのはそれだけだったが。

ヨーロッパで勝つために独自の戦い方を行ってきたフットボール史上最高の監督の2人が初めて会ったのがその大会だったという、中身のない記事と仮説が歴史上あてにならないのだろうか。

そのブランタイアのピッチは、おそらく男たちが未来にヨーロッパ制覇を成し遂げるために鼓舞する独占的な誇りをイートン校(エリート私学)の競技場ではもちえないだろうという適度の主張が行えるだろう。
チャプター3へ続く。