Hail Hail

 

イントロダクション 導入 その1

 

解説:1982年のスペインワールドカップ時にジョックステインはスコットランド代表監督を務めていた。本大会に向けて同じグループリーグに入った”弱小国”ニュージーランドを視察するためにグラスゴーから遠路はるばる何回も乗り継いでアメリカ大陸を渡って向かっている飛行機の中での著者とステインの会話のシーン。なお、このころは米ソ冷戦時代で、ソ連上空は飛行禁止なので、地球半周以上を回って旅行しなければならなかった。

 

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スコットランド代表監督時代のステインと、アシスタントマネージャーを兼任していたアレックス・ファーガソン

1982年の春、サンフランシスコからホノルルへ飛ぶ高度2万6千フィート上空の飛行機の中で、私の隣の席で深い眠りから目覚めたジョックステインは話し始めた。

ステインはもともとかなり多弁な方で寝るよりも話す方が好きなタイプだった。

時折、彼が扇動的に話すのは、議論や論争、口論、オチをつけるのが好きで、しかも非常にことば巧みに 最後の一言まで口を挟ませないテクニックを持っているからである。

私は彼が誰かと話していて元気なく黙って去っていったのを見たのは一度だけある。その時は、彼のキャリアの頂点だったのが影を落としていった時だった。

飛行機のエンジン音が響きわたる中、彼は起きがけにぶつぶつ言ったかと思うととっさに私の方を見て、さらに辺りをキョロキョロとあたかも我を失ったように見回していた。
気を取り戻した彼はやや席に浅く座りなおし、ちょっとの沈黙の後、話し始めた。

グラスゴー、ロンドン、シアトル、サンフランシスコ経由でニュージーランドへ向かう飛行機の中で、1975年の夏ロッカビーで起こった彼が危うく死にかけた出来事について低くハスキーな声でまるで悪魔に取り憑かれたかのように話し出した。

高速道路の反対車線を無鉄砲に走らせていた彼のベンツが対向車に激突し、めちゃくちゃに破壊され彼と同乗者が大怪我を負い危うく死にかけたのだ。

私はなぜ彼がこのタイミングで話し始めたのか意味が理解できなかった。しかし彼の夢の中で事故の記憶に触れてしまい、うなされていたから、のようであった。

その事故で彼は死に直面していたほどだった。

私は彼からこんな深く、一身上の打ち明け話を聞かされるとは全く予想をしていていなかった。
通常彼は自分のプライバシーを非常に強固に守っており、(原文は”彼のプライバシーを彼のつぎはぎを夢中になってパトロールするロットワイラー=警備犬、に守らせている”)ごく稀にステインの私的なことをすっぱぬきたいと思って1インチ(ちょっとでも)近づこうものなら彼は勢いよくプライバシーのシャッターを閉じただろう。

ステインの自宅は非常に高い壁に囲まれて、あたかも神託所の権威のように威厳を持ってほとんどどんなことにも意見をはっきりと話す彼のパブリックイメージとは全く正反対だった。

彼の絶頂期の時でさえも、わずかな例外を除き、メディアに対して非常に用心深く限定的な関係を築いていた。

しかし、どうだろう、今現在、角が取れた彼はとにかく引き受けるべきではなかったこの特別な旅行で、一種のポリティカルコレクトネス(政治、宗教、差別、偏見等を排した表現)を脱して、短い自身の内観をしていたのだった。

低い声で「私はもう助かる見込みがないと言われていた」

「しかし、思い出せるのは光輝いて風になびいていた様々な色のフラワーボックスだけだった。多分反対側は見逃していたんだと思う。なぜかわからないけど、、、死が近かったからかな? たぶん、フラワーボックスで思い出されるのは子供の頃知っていたフラワーボックスのことだ。

よくはわからないんだけど、、、あの頃は(入院中)何にも感じなかった、痛みも、何もかもさ。 覚えているのは目に映ったのがフラワーボックスだけだったことだ。

見たのはそれが全てさ。どう死ぬか、そして何がその時あるのか、不思議に感じさせられるかもな”

彼は大きな手を自分の前に差し出しあたかも宇宙の未知なる神秘を招くかのように語ったのを思い出す。

彼はそのあと、話を続け、長い治療期間の間ベッドに横たわって、人生においてもはや価値を感じないものや今まで持ったこともなかったものを査定していったそうだ。

具体的なことは言わなかったが。

死に直面した経験を持つ人が誰しも残りの人生を改めて吟味し直すことは不思議ではない。

しかし、ステインは驚くべきことにわずかながらであるが、心を開きだした。このことは私を混乱させた。
私は自分のプロの記者としての人生を別の人へと合わせさせられていた。

私の世代では誰もステインの考えから忘れ去ることはできなかった。ステインはダイナミックで自信に満ちて突然私たちの前に現れ、気持ちを時には冗談で持ち上げ、時にほとんど卑劣で復讐心に燃えて訴えるように叩きのめした。

素晴らしい視野を持つステインは、同時に爆発的な激情家でたらしめた。ただそれが混ぜ合わさったことが有無を言わさず魅力的だった。

もちろん、初めに置いては、ある驚くべく出来事が起こったことを知ったが、セルティックにおける革命の限界にメディアが気づいた時は、彼は限界の責任をスコティッシュフットボールに押し付けていた。

石膏で出来た聖人などが収められるわけがない。

当時のアグレッシブなステインは今日でもスコットランドをひどく苦しめる(カソリックとプロテスタントによる)セクタリアン分裂に断念していた。(特に彼はプロテスタントでカソリックのチームを率いていたのでなおさら感じていた)

セクタリアン分裂は有名なライバルのレンジャーズでさえ宗教的なバイアスがかかった非論理的な成功の追求が重しとなり、クラブとしての将来に対して検閲を余儀なくさせられている。

(プロテスタントのセルティック監督である)ステインがレンジャースのセクタリアン分裂への改革の場に登場することは一切なかったことが彼らの進みを遅くしたのかもしれない。

それは、この時代でメディアにうまく相手していたステインだったが、メディアが取り上げてた全てはアイブロックス=レンジャーズを喜ばすために扱われたことをセルティックの中で気づいたからだった。

彼はあたかも何人かのジャーナリストへ向けて文章を送ってるかのような印象を残した。このような叔父のような感じの良さを出せる人はいなかった。

年を取ったステインがあたかも不滅であるかのような印象を与えたのはビルシャンクリーが、1967年のリスボンでの優勝に対するステインへの文章の引用からではなく、ほとんどの人が今際の際だと思った自動車事故での負傷から立ち直ったことからだった。

その2へつづく。