Hail Hail

 

イントロダクション (導入)その2

 

 

さて、この飛行機にいる年配の男の様子に戻ろう。

言葉で表現するのは簡単だが、彼が引き受けたスコットランド代表監督の役目が非常に困難なものであることをメディアを通してオープンにするために飛行機での大陸間移動、1982年のスペインワールドカップで対戦する3流国であるニュージーランド視察へ向かっているのはもはや生活習慣病のように感じ、彼をとても消耗させた。

心の目を未だ若々しく輝くばかりに燃やし続けるイメージを持つ人が、老いていくことに対して感謝するのは難しいものだ。それを大事にしている彼はいつも全く不滅のようだったから。

今彼は魅力的に普通に見え、発する言葉も弱々しかった。

ただそれはつかの間の印象だった。少しの間、わずかながら、レイ・ブラッドベリの「The Illustrated Man」にでてくる体に書かれた絵は別の物語が描かれているタトゥーの男が隣に座ってるのではないかと感じた。

ステインはタトゥーをしていないのを知っている。

そして一度ウィリアムⅢ世(イングランド王でプロテスタント)のタトゥーが胸にあると広く噂になったが、そうではなく、その代わりにスコットランドフットボール史上最も大事な時代に関する幾千ものストーリーや、セルティックとレンジャーズの試合の時父親が決して彼の活躍を望まなかったり、彼がセルティックと契約したから彼の友人はに決まって彼を避けるようになったというような彼へのプロテスタント社会からの態度に関するストーリーが彼の全ての毛穴から吹き出すことだろう。

私は両宗派のいろいろな説教壇からのもっともらしい発言の無効性に挑戦したという実際的な方法で宗教的偏見に基づく人々の考えを本気で変え始めた男の隣に座っていた。
(当然のことながら思考規範や教育は各宗派の教会の力が圧倒的だった。そこがスコットランドフットボールの発展を妨げるガンであるとステインは挑戦したことを意味する)

ステイン時代の継続的なセルティックにおける成功はセルティックの緑と白のスカーフ(マフラー)が、事前に警備犬に見つからなければ、プロテスタントの学校の校庭に持ち込まれることになった。

ラナークシャーのバーンバンク出身のステインが景色を一変させた方法を知ることなく考察して、スコットランドフットボールの現在と未来を正確に位置付けられなかっただろう。

彼は職人、作業員がある意味みすぼらしいクラブでプレイしているところからやってきた。その時はいくばくかも偉大さを表すサインなど見えもしなかった。しかし、それこそが彼を成長させた要因の一つである。
間違いなく運によって彼の進む道を加速させていた。時々、しかし本質的に、運が味方をして、ほとんど奇跡的に選手としての相当な凡才さがアドバンテージに変わっていくのを我々は目の当たりにしている。

ステインにとっては試合の底上げの仕方を知っていたことである。

彼はプレイヤーとして優秀じゃなかったから選手の頭の中を得てあたかも優秀な選手になりすました。
しかし彼の欠点を理解する過程において、より選手の方が最高の反応をするだろうと気づいた。

この旅の間、私がわずかに自動車事故の話題に戻そうと試みたのにもかかわらず、彼は話題に乗ろうとはしなかった。

ニュージーランドに我々が着いた時、彼はスコットランド代表として訪問していることよりもむしろセルティックで成功した監督としてウェルカムパーティでは歓迎を受けていた。
このことは彼を生き返らせるようだった。

ステインにセルティックについて述べることはあたかも彼に輸血をしているかのように蘇らせた。

彼は過去を生きているわけではない。しかし彼は時々過去の思い出に浸るのが好きだった。

我々はほとんど収穫がなかったが、滞在は楽しいものだった。
しかし私はここまでのとても疲れた長旅に感謝したかった。それは予期せぬ告白を彼から聞けたのだから。

帰路の途中グラスゴー着陸前に彼は私に向かってこう言った。「もし、この紛争(イングランドとアルゼンチンのフォークランド諸島をめぐる領有権問題)が悪化し、マギー(サッチャー)が、戦争へと舵を取ったら、君の2人の息子をアイルランドへ連れて行き避難させろ。」

「そして彼らに戦争から何としても巻き込まれないように言うんだ。君は彼らをこんな戦争で戦わせたくないだろ」

その3年後、1985年、息子のうちの一人はカーディフのニニヤンパークのピッチ際、トンネルの外でステインが倒れるのを見た。”大丈夫か!?ジョック!” ステインが担架で運ばれる際、息子はスコットランド代表ベンチの後ろの入り口付近から叫んだ。

大男は目を閉じ、返事できなかった。

しかし彼の物語は永遠に沈黙することはないだろう。

第1章へつづく。