Hail Hail
スコットランド史上最高の監督、故ジョック・ステインの英語版自伝翻訳してみたいと思います。
約1年間近くを費やした自身の旅行記がほぼ終わったので、新しいシリーズものを考えていたのですが、やはり、日本では全く知られていない、セルティック&スコットランド史上最高の監督、「ジョック・ステイン」を当ブログで紹介しようと思い立ち、友人のマーティンがからもらった「JOCK STEIN The Defeinitive Biography」by Archie Macphersonの日本語訳に挑戦しようと思います。
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まず、ジョックステインについて簡単に、
1922年10月5日生まれ、1985年9月10日没の享年62歳
スコットランドのサウスラナークシャー、(グラスゴーの南側)バーンバンク生まれ。
鉱山の炭鉱夫として働きながらパートタイマーとしてブランタイアビクトリアFCの選手としてキャリアをスタート。ポジションは今でいうセンターバックの選手でした。
合わせてアルビオンローバーズでもプレイした後、プロ契約としてウェールズのラネリータウンでプレー。
1年後の1951年にセルティックからオファーを受け、彼は子供のころレンジャーズファンで宗派はプロテスタントでありながらセルティックと契約しました。
1952年にはUK国内で行われたエリザベス2世女王即位記念の大会「コロネーションカップ」に出場、アーセナル、マンチェスターユナイテッドを破り、決勝でハイバーニアンを破って優勝を飾りました。
1957年に度重なる足首の故障により現役を引退し、セルティックでのプレーは通算106試合で2ゴールという成績でした。
現役引退後すぐにセルティックのリザーブチームのコーチを3年ほど行い、後にチャンピオンズカップを掲げる伝説のイレブンとなったビリーマクニールやボビーマードック、ジョンクラークを育てました。
1960年にはダンファームリンアスレチックの監督に就任し、早くもその手腕を発揮、翌年のスコティッシュカップ決勝、再試合の末古巣のセルティックを破り、ダンファームリンに初のスコティッシュカップをもたらしました。
さらに翌シーズンではUEFAカップウィナーズカップで準々決勝まで進むとともに、国内リーグでも4位に入る躍進を見せ、その活躍から、ニューカッスルやハイバーニアンからオファーも届きました。
1964年にかねてから請われていたハイバーニアンの監督に就任。イングランドからの度重なるオファーが舞い降りる中、ステインは古巣からのオファーを待ち続け、1シーズン後の1965年に第4代目、史上初のプロテスタントのセルティックの監督として帰還します。
(この時点80年近い歴史の中で、過去3人しか監督がいないのは初代監督のウィリーメイリーが50年近く、3代目監督のジミーマクグローリーが20年セルティックを率いたため)
就任1年目の1965-66シーズンから、1973-74シーズンまで国内リーグ9連覇を達成、スコティッシュカップ8度、リーグカップ6度制覇、ヨーロッパでも1967年、リスボンでインテルを破りチャンピオンズカップを制覇を筆頭に1970年の準優勝、準決勝、準々決勝、それぞれ2度進出とヨーロッパでも強豪として名を馳せてました。
1978年に初めてイングランドへ渡り、リーズユナイテッドの監督に就任しますが、たった2ヶ月で辞任し、スコットランド代表の監督に就任します。
スコットランド代表では、1982年のスペインワールドカップに出場し、ニュージーランドに5-2で勝利するも、ブラジル戦では1-4と粉砕され、最終戦のソヴィエトと引き分けてしまい、得失点差で惜しくも2次リーグ進出を逃してしまいました。
1986年のメキシコワールドカップに出場すべく予選を戦っていたスコットランド代表に悲劇が襲ったのは1985年9月10日のことでした。
場所はウェールズ、カーディフのニニヤンパークスタジアム、この日はウェールズ代表とスコットランド代表のワールドカップ予選でした。
試合はウェールズのエース、マークヒューズ(元マンチェスターユナイテッド)の得点でウェールズがリード、試合終了10分前に得たPKをデイビークーパーが決めスコットランドが同点に追いつく、という白熱の展開でしたが、試合終了間際、突然ジョックステインがベンチで倒れこみ、担架で運ばれていきました。
試合中に心臓発作を起こしてしまい、治療の甲斐なく享年62歳でこの世を去ってしまったのです。
予選中に監督を失ったスコットランドは、代表でステインのアシスタントをしていたアレックスファーガソン(当時アバディーン監督)を暫定監督に立てて予選を勝ち抜き、ワールドカップ本戦に駒を進めたのでした。
セルティックでの監督キャリアをずいぶん簡単に書いてしまいましたが、イギリス初のチャンピオンズカップ優勝、ヨーロッパ史上初のトレブル(チャンピオンズカップ、国内リーグ、国内カップ制覇)、リーグ9連覇を成し遂げた功績から、OBE勲章が授与されるとともに、スコットランドフットボールの殿堂入り、スコットランドスポーツの殿堂入りを果たし、セルティックでも史上最高の監督として、1998年に改装されたセルティックパークのゴール裏を「ジョックステインスタンド」と命名するとともに2011年にはセルティックパークの正面玄関前に、1967年チャンピオンズカップを掲げる姿を模した銅像が建てられました。
スコットランド人の監督のほとんどは口々にジョックステインの功績を称えますし、コーチとしての彼の理論、信念を学んでいます。
もちろん、その後、ジョックステイン以上の功績を残したサー・アレックス・ファーガソンをして「彼が史上最高の監督だ」と言わしめたほどフットボールの歴史に燦然と輝く実績を打ち立てた人物です。
なぜ、これだけの功績にもかかわらず日本ではほとんど知られていないのか、すでに50年以上経っていることもありますが、彼の実績はほとんどスコットランド国内でのものだからです。
リバプールのビルシャンクリー、マンチェスターユナイテッドのマットバスビーにアレックスファーガソンの実績はファーガソンを除き、ほとんどがイングランドでの実績。それがさらにスコットランド国内での評価を高めている所以でもあり、イングランドの情報がほとんどの日本で知られてない所以なのだと思います。
そのジョックステインの自伝をこれから順々に紹介していこうと思います。(できるかなー。。。)