Hail Hail
第7章 東の輝く星 (原題:A Star in The East) その2
1957年の夏、ケリーは34歳の全キャプテンをリザーブチームのコーチ就任に要請した。それはケリーが、第一にステインをセルティックパークに繋ぎとめておく理由の一つにしか過ぎなかったようだ。
2度と本気でボールが蹴れないことを知っているステインだったが、オファーを受けた。
ただ、たとえオファーを受けたとしても彼の考えはどこかで、いやどこででもチームマネジメントをすることだった。
彼の足首は未だ煩わせたが、もはや不自由ではなかった。
ステインは新しい仕事に興味を持って入り込んでいった。
後の世代に手を貸す仕事は、その当時、単にリザーブチームを持っているということよりはるかに重要だった。ステインの指導していた期間と同時に、すぐに頭角を現しだした選手たちは ”ケリーズボーイズ”と呼ばれた。
その中には、パディ・クレランド(元セルティック&マンチェスターユナイテッド、1968年ユナイテッドがヨーロッパ制覇した時のメンバー)、ビリー・マクニール(セルティック史上最高のキャプテン)、ボビー・マードックやジョン・クラーク(マクニールと同じリスボンライオンのメンバー)、と1967年のリスボンで中核をなした選手たちがいた。
ステインがリザーブコーチだった時に初めて週給5ポンドで契約したジョン・クラークは、事実、スコットランドで初めてのグラウンドボーイ(ボールボーイ)をしていた。
クラークもまた、ステインが作り出す”結束の効果”を強調した。
”ステインは、単にトレーニングや指導をするのではなく、一緒になって取り組んだんだ。我々は彼をひどく尊敬した若者だった。
ステインが車を所有する前、我々、特に自分とビリー・マクニールはラナークシャー出身なので、彼と一緒に練習グラウンドからパークヘッドクロスまで歩いて行きバスに乗ったんだ。
いつもは、我々(マクニールとクラーク)のバスが最初に来るんだけど、ステインは、自分がボスだと言って、彼のバスが来るまで先に乗るのを許さなかったんだ。
彼は我々をそこに立たせ笑いながら去っていったんだ、時に我々はさらに30分かそこらバスを待たされたんだけどね。
その後彼は自分の車を買ったんだ。確かヒルマン(自動車の名前)だったかな。
そして、彼がハミルトンの家まで帰る道すがら一人一人全員を乗せて送って行ってくれたんだ。
それが、フットボール監督になってなければ自動車レースのグランプリの出場してたであろう男の、ドライブ旅行好きのきっかけになったんだ。
ジョックと一緒に車で旅行するのは一つのすごい経験だよ”
パディ・クレランドはステインのリザーブチームが動き出した時から、クラブにとって重要な可能性になり始めていた。そして、ステインのコーチングは天啓のようだと熱心に指摘した。
”ステインはよく低い高さのベンチを何台も持ってきてタッチライン上に並べたんだ。そしてロングパスをけらして、ベンチの下をくぐらせるという練習をやったんだ。自分に何度も何度も、高確率でできるようになるまでやらせたんだ。
そしてトレーニングにも変化を加え、全てにおいて少人数のグループでボールを使って行ったり、試合について話したり、何が選手を動かさせるか説明したんだ。
彼は、
”何かをやれと言った時には、言われた通りに実行しろ。その後続けて、次の時に忘れた時には問題はお前自身にある。
何を言われたのかすぐに理解するかさもなければお前に問題があるかだ。試合の状況を常に考えるんだ。” と言っていた。
そして彼はすべての選手のフィジカルコンディションが調整されていることに神経を使った。
例えば、我々全員がビリー・マクニールの頭を生かすために必ず正確なクロスボールを上げさせるようにした。
なんどもなんども繰り返しね。
そして、実際何がクラブに持ち込まれたか見てごらん。
一方で同じ時にファーストチームはどんなトレーニングだった?
全く比較にならなかったよ。グラウンドを周回して、ボール回しをして、その後、練習はおしまいで家に帰るんだ。
全く冗談だね。
すごく残念だ、セルティックパークにいるこんな時代遅れの人たちは彼がいなくなる前にステインを監督に就任させるべきだね。”
ステインは練習を単にトレーニンググラウンドの中だけでは行わなかった。彼は外に出かけて行って彼のためにプレイしたい若者をリザーブマッチに出場させる役目があった。
そして、1958年の春、ステインは当然のことのように勝利の道へ戻ってきた。今回はリザーブカップの決勝でレンジャーズとのホームアンドアウエー方式による2連戦だった。
初戦はセルティックが3-1で勝利した。さらに、アウェーのアイブロックスでは5-1と大勝した。
抜かりなくステインは彼のチームに、経験があり、彼の指示に即座に対応出来るファーストチームの選手を呼んできていた。
この2試合は合計で40,000人もの観客を集め、単独では、この時代のリザーブゲームとはいえ、彼の戦術的計画が、名声のボーナスを得られるには十分な理由となった。
この勝利は彼の監督生活において最初に獲得したカップだと言えるだろう。この出来事はすべて彼の技術をより高いレベルで発揮したいという願望に火をつけた。
しかしながら、セルティックの中で進めていくためには、大きく、乗り越えられない障害物と解釈される一つ要素があった。それは彼がプロテスタントということである。
彼は移っていこうとしていた。妻のジーンは1988年にライターでジャーナリストのケン・ギャラガーにそつのない言葉で、こう認めた。
”彼は多かれ少なかれセルティックとどこまでも遠くまで一緒のチェアマンにセカンドチームを率いることを言われたわ。この年配のチェアマンはジョンに外に行って経験を積んで来いと提案していて、それはつまりその後セルティックに帰ってこさせるつもりだったのを知ってるわ。
でも、これは正しい判断じゃないって思ったし、ジョンも私と同じ考えだったの。
ジョンはショーン・ファロンが次のセルティックの監督になるんだろうって思ってたわ。そしてジョン自身も監督になりたがっていたしそれは誰も止めることはできなかった。
私は、ジョンは本当にプロテスタントである自分はセルティックの監督には決してなれないって考えてたと思うわ。
だから彼は決心して他のクラブで挑戦することにしたの。”
彼が本当に一言一句間違いなくそう言ったわけではなかっただろうが、ステインは憤りなど感じることなく、ほとんど攻めるそぶりさえも見せることなしにこれらのことを受けいれて去っていった。
もちろん、セルティックで働いている時にずっとこのことは彼の意識の中で引っかかっていた。我々は、他に見たことがない才能を持っている男なのにもかかわらず、セルティックというものが引き起こす原因により、ステインが最高の勝利を得たときでさえ、セルティックのボードメンバー(経営陣)の中から、ステインの宗教的背景が忘れ去られることはなかった。
彼自身は、友人にこう漏らしていた。
実際彼がクラブから永久に去った時、それは彼のバックグラウンドによるものだと、強く暗示させていた。
ステインは、彼のバックグラウンドへの偏見に対する感情を表さなかったが、それにもかかわらず、ボードルームのメンバーたちは、意識し続けた。
悲しいかな、各宗派の考え方を変えることだけはどうすることもできなかったのではないかということに、彼の生き抜く知恵によって気づいた。
彼のキャリアに助け舟を出してくれて、セルティックサポーターとの衝突をつなぎとめてくれたケリーへの感謝は、ステインが自分のバックグラウンドによって、決して受け入れられないセルティックの人々へ感じていたものを昇華させてくれたことだった。
その3へ続く。