Hail Hail

 

第4章  ジョックって誰?  (原題:Jock Who?) その4

 

1958年のインタビューで、有名なスコットランドのジャーナリスト、ヒュー・テイラーは、セルティックが自分に興味を持っていることを初めて知った時、ステインは、”そのニュースが最初に流れた時、冗談を言っているのかと思ったよ。もちろん信じられなかったよ、セルティックが? 俺を?ってね。 ありえなさすぎて思わず笑っちゃったな。 ”

テイラーは、セルティックのサポート(ファン)の気持ちの要約も付け加えた。

”セルティックファンは、この移籍が喜ぶようなものではなかった。中にはジョック・ステインと言う名前を知らないものすらいた。一方では、加入させるには年を取りすぎているとさえいうものもいた。”

面白いが、契約をおこなうのは、少年サッカーチームで選手が描く実現したい項目の下に隠された一つの中にあるような全くの空想的な絵空事だ、とグラスゴーオブザーバー紙とカソリックヘラルド紙は伝えた。

”ステインのプレイを見た人は、彼の能力と経験を保証した。” これは、 ”セルティックへのはっきりした資産を証明するべきだ”とも読めた。

しかし、こうも明言していた、”前アルビオンローバーズのセンターハーフで、現ラネリーのジョン(ジョック)・ステインは、火曜日にセルティックとサインした時に、自分の野心に気づいた。”

セルティックでの野心だって?

彼ら(メディア)は、バーンバンクのことを何も聞いてないじゃないか!

1951年の彼がセルティックと契約したというニュースは、2つのはっきりと分かれた、同じ不信感情を持つグループに歓迎された。

最初に、セクタリアンの結束は断固としてずっと存在し続けると信じる、バーンバンククロスの人たちだった。
彼らは(ステインの移籍を)全くもって理解しがたかった。

ステインがバーンバンククロスに現れて泥酔してギャンブルの魔の手にわめき散らしていたことは、 緑と白のジャージ(セルティックのストリップ)を着ようとしているニュースと同じぐらいかき回されるようなことはなかった。
(=逆説的にセルティックと契約しようとしていることは、はるかに、ステインが、泥酔してギャンブルに対してぶちまけていることよりもはるかに大騒乱を引き起こした。)

ハリー・スティールは、ステインはバーンバンクのコミュニティから追放されたと認めた。

”彼は、セルティックとサインした時、一晩でたくさんの友人を失ったよ。
「裏切り者」と呼ぶのは、まだ、彼に対する一番親切な言い方だよね。

ちょっとしばらくすると、バーンバンククロスで彼の名前は聞かなくなった。彼が以前住んでたり、訪れたりしていたところなのにも関わらず、彼は(セルティックの)ブレザーを着て、決して我々の前に姿を現さなかったよ。”

スコットランド代表監督時代でステインが最も静かで考え込んでいた時期に、ステインはこう切り出した。

”母親に会いに行くために家に戻ったんだ、ベッドルームを見たら服が変わってたよ。ここで、自分の時間を過ごしていたら、子供のころからの親友がやってきて母親と話してたんだ。いつもようにね。彼は、とてもうちの家族と仲良くしていて、両親と多くの時間を過ごしてくれていたんだ。

その時、彼は、俺が部屋にいるのを知らなかったんだ。母親が、彼に自分が隣の部屋にいるから行って会ってきたらどうかって、話したんだ。”ジョン(ジョック)は、あなたのことを尋ねてたわ” と。

しかし、それを聞いて彼は何も言わず、踵を返して外へ出て行った。そして、二度と彼と話すことはなかったんだ。”

エルギン(スコットランドの街)の小さいエルギンのホテルで、夜遅くに皮のソファにけだるくほとんど無作法に腰掛けて、彼の見かけ上が冷淡そうに見えるたのと、見かけによらずなにげない口調でその話を語ろうとしていたため、ステインがその話を語るのを見ると、その出来事は彼の心を深く傷つけていた。

しかし、人生は決して社会的状況と二度と同じではなく、パークヘッド(セルティックパーク)に彼の残りのフットボール人生を捧げる決断を下すのはさほど難しくはなかった。

そして特に彼がセルティックの監督になって、セルティックの偉人となったことは、彼に背を向けて去っていった人たちへの復讐にもなった。

例えば、1971年のスコティッシュカップ決勝、レンジャーズ戦とのリプレイで2-1で勝って優勝を決めた時、ダグアウト近くでインタビューのため待ち構えていたら、ステインは両手は握りこぶしをしながら、軽くスキップをしてトンネルの方へ小躍りをしながら向かってきたのを見た。それは、彼の過去の(プロテスタントコミュニティへの)忠誠心の墓の上で踊っているかのようだった。

その時のリアクションはまさにセルティックサポーターそのものだった。

当時のセルティックサポーターがどう感じていたのかを知るためにはパークヘッドを取り巻く状態を理解しなければならない。

第二次大戦の頃から、クラブはものすごいサポートを受けながらも何もトロフィーを獲得できていなかった。

1951年にジョン・マクフェイルのゴールでマザウェルを破り、スコティッシュカップを獲得したが、その頃私はほんの学生だったが、そのトロフィーは、1938年のリーグ優勝以来初めて獲得したものだった。

同じ年のその後、セルティックは、ハンプデンパークで行われたセントマンゴ カップ(イギリス国内博覧会開催に合わせて行われたスコットランドのクラブが戦った16チームによるカップ戦)決勝で、アバディーンを下し、2つ目のトロフィーを獲得した。

しかし、当時のセルティックは繰り返される平凡な状況に陥っていた。不適切さとサポーターの幻滅は1951、52シーズン、80年の歴史の中で初めてスコティッシュカップのリプレイで、キャスキンパーク(スタジアムの名前)でサードラナーク(1967年に一度消滅したグラスゴーの古豪クラブ、1996年に復活し、現在アマチュアリーグ)相手に2-1で負けてしまったことで限界に達した。

この下降線は、選手の明らかな能力の欠如だけではなく、15年間で一度しかトロフィーを取れなかったことで(マンゴカップは除く)ほとんど負け犬根性になっていることから由来していた。

それはスコットランド中で全国的な人気を誇るビッグクラブにとっては驚異的に過小な成績を表していた。

さらに悪いことに、もはやセルティックは戦後から、成功の振り子(=タイトルの行方)はアイブロックスとイースターロード(ハイバーニアンの本拠地)の間でゆり動き、今までセルティック自体が志向していたようなフットボールを”フェイマスファイブ”(ハイバーニアンの当時有名だった5人フォワードのこと、システムは2-3-5)を要して魅力的なフットボールを展開していたハイバーニアンにその座を奪われ、レンジャーズの最大のライバルとして扱われてなかったことだ。

その5へ続く