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第4章  ジョックって誰?  (原題:Jock Who?) その3

 

 

多くの選手がこのような低迷した時代に直面しなければならない。

しかし、その背景にはもっと不安にさせる出来事があった。彼の妻のジーンと娘のレイはスコットランドのハミルトンに短期間滞在していたが、別れて暮らしていたことが彼女たちをもっと悲惨にさせていた。

そのため、彼女たちは南へ移動し、彼と共に生活し始め、レイは地元の学校に行き始めた。

しかし、ラナークシャーの家を離れて8週間しか経ってないが、ジーンが電話を取ったら、電話の向こうからラナークシャーの家に泥棒が入ったと連絡を受けた。

彼女たちが住んでいたその家は、宮殿というわけではなくみすぼらしい公団住宅であった。

しかし、この時代の住宅不足の中で住宅を保有していることは、かなりの資産と考えられる。

彼女が電話を受けた時、ステインは不在だったが、彼はチームメイトとともにヘイスティングでの試合に向けて移動中だった。

ジーンは悲嘆にくれて混乱していた。さらに、強烈にホームシックにかかっていた。

日曜日にステインが帰った時に、彼女は夫に対峙して、彼が他に何を念頭においていようと、彼女はスコットランドに帰りたいことを明らかにした。

彼女の悲嘆、ホームシック、増大する幻滅感は、クラブに現在起こっていることは彼にとって重くのしかかってきた。そして彼女が監督に家族みんながスコットランドに帰りたがっていることを伝えて欲しいと主張した時、ステインは不憫に思った。

ステインはすでに、洗練された男性である、監督のジャック・ゴールズボロに話していた。そして、一番尊敬されている選手がクラブを去るのが避けられないことを受け止めていた。

”スコットランドへ戻っていい”

ステインがゴールズボロに尋ねたとき、彼がステインに戻ってどうするんだ、と聞いたときにステインは選手をやめて炭鉱に戻りたいと答えた。

すべての意図と目的を彼は諦めていた。炭鉱に戻り、賭け事屋に戻り、クロスの周りで冗談を言い合う。そして、できるなら、しばらく遠ざかっていた、テラスでビックスかレンジャーズの試合観戦をするという元の生活に戻ることだった。

彼の意識は、無名時代の方向に向かっていた。

ビリー・マクニール、セルティックの歴史上最高のキャプテンであり、ステインの後に続いた元監督でもある彼は、しばしばセルティックの物語はおとぎ話のようだ、と表現した。

誰もが、投資が仇となり、倒産のようになったことを疑わなくなったことは、ステインがライフスタイルを元に戻し、フットボールから永遠に去るという考えを後押しした。

そして同時期に500マイル向こうのグラスゴーからほど近い、ベイリーズトンの村周辺で、馬に石炭を積んだ荷台を引かせて売っていたことと、いつの日か”ジョックステイン”という言葉が彼の口からこぼれることが起こるんじゃないか、ということを思い起こさせた。

もし、それがそこで言われていたら、彼の作ったものとは、すべて違うセルティックの歴史になっていた。

ジミー・グリブンは1940年代にジュニアフットボールにおけるで乱闘騒ぎ時代を過ごした後、セルティックのスカウトになっていた。
かつて彼が家族に語ったことがあったが、それは、奇襲攻撃に参加したように、試合終了後の笛は、”服を掴んで、トラブルから走って逃げ出す” ものだった。

試合中にグリブンが尊敬していたのは、ビル・ストラス、1940年代、50年代、レンジャーズの名高い監督だったが、グリブンがチームと一緒にアイブロックスに向かう時、セルティックの選手のために、半分入ったウィスキーを用意していた。

セルティックのコミュニティの中に不満の渦巻いていた時代、ボブ・ケリー、(セルティックのチェアマン)はグリブンに向かってアドバイスした。

ステインの何がグリブンの目に焼きついたのかは、完全に明らかにはなっていない。

ローバーズ時代のチームメートだったアダム・マクリーンの目に映ったのは、

”ある夜セルティックパークでのリザーブの試合で、セルティックは、ジョン・マクフェイル(セルティック通算204試合出場、元スコットランド代表)をセンターフォワードに入れていた。

彼はご存知のように手に負えなかった。(素早い選手)

ジョックはこの時彼に全くボールを蹴らせなかったし、マクフェイルも空中戦は得意だったのに空中でも競り負けなかった(チャンスを与えなかった)

もちろん、これはただのリザーブゲームに過ぎないけど、ステインのこの夜のパフォーマンスは誰かの目にとまったんじゃないかな。”
しかし、おそらく、それ以上に大事だったことは、1949年の1月に行われたセルティックパークでのアルビオンローバーズとセルティックの試合だった。この時ローバーズは10人で1時間もプレイし、3-0で負けたのだけど、もっと点差が開くに違いないと思われていたのだが、デフェンスの頑張りは、広く賞賛された。

ザ・サンデーポスト紙では、ステインをヒーローのひとりとして扱い、

ザ・サンデーメール紙では、”守備の要のステインはムーアとイングリッシュ(名前を書かずイングランド人という意味なんだと思う)とでディフェンスを形成し、あたかも逆に得点したかのように自信を見せていた。と報じた。

この試合は、グリブンのようなフットボールに関して眼識を持つ人にとっておそらく記録される試合となった。

同じく、グリブンはステインがホームゲームをプレイするクリフトンヒルがあるコートブリッジから、30分ほど離れたところに住んでいた。このことでグリブンは、シーズン中さらに何度かステインのプレイする試合を見る機会ができた。

グリブンがセルティックのチェアマンから受けた即戦力獲得を希望しているという要求にどのぐらいの期間で答えたのかは明らかではないが、のちにグリブンはその名(=ステイン)を伝えた。

ただ、ステインが当時どこにいたのかわからなかったことがちょっとした問題になった。
グリブンでさえ、所在がつかめていなかった。

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若き日のステイン(右)と恩人ジミー・グリブン

結局、ステインが南ウェールズに行っているということがわかったのはそれほど時間はかからなかったが。

セルティックはラネリーに獲得の打診を開始した。

このことでステインは自分の人生に影響を与えたグリブンに対する感謝を忘れなかった。

1965年にセルティックが決勝でダンファームリンを破ってスコティッシュカップを獲得した時、試合後のお祝いでトロフィーをグリブンに渡して、セントラルホテルまで運ばせた。

1967年のヨーロッパカップ(現チャンピオンズリーグ)に優勝してリスボンから帰る途中、セルティックパークのブートルーム(コーチングスタッフが、戦術相談やコミュニケーションを図る部屋、リバプールのアンフィールドにあるブートルームが有名)に置いてある優勝トロフィーを一番に見せるため、グリブンをファンで溢れかえるセルティックパークの玄関を抜けさせて連れて行ったことにも表れている。

 

その4へ続く