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第6章 勇敢なキャプテン (原題:Captain Courageous) その1

あらすじ:1953年のコロネーションカップをセルティックが獲得したことにより、今まで低迷していたチームを蘇らせた。その中心となったのが他ならぬステインだった。翌1954-1955シーズンは、その復活を象徴するシーズンとなり、リーグの覇権を握っていたレンジャーズにでさえ互角以上の戦いを挑めるようになった。そしてついに18シーズンと言う長きに渡った暗黒の時代に終止符を打ち、スコットランドの頂点に立った。

 

ブロードウェイミュージカルとハリウッド映画でも有名な”シカゴ”の中で、ショーを中断させるほどの喝采を浴びる人を”ミスター・セロファン”と呼んでいる。

不可避的に周りにたくさんの人がいようとも、ほとんど枯れそうな声で、懇願する男は、逆説的に決して全てに十分気づいていない。

ジッと固まり、分別し、覆いかくし、取り繕う。しかし、誰も彼に注意を向けようとしない。

この文章はいい左足を持ち、驚くべき右膝を持ち、イエローをもらう過ちを起こさないタックルと、聳え立つような高い空中戦をするセンターハーフで、セルティックの向こう数年間のディフェンスの要となる選手へ書かれたチャントの歌詞だった。

しかし、この時代の新聞記事を調べるなら、ステインはわずかな注目しか浴びていなかった。マッチリポートは彼の名前を載せることはなかった。それはあたかも彼がその試合に出場していないかのようだった。

セルティックは、コロネーションカップの勝利を強固なものにし始めた。ステインの貢献は、突然、彼の影響力に気づいて、気が咎めながらもきわだたせていた人々によるおざなりな方法で、ステインの名前を出すときにメリットがある時のみとなった。

もちろん、目立つエンターテイナーの側にいる選手、とりわけ派手なチャーリー・トゥリーや、地元の英雄で急速に体重が増えた、ジョン・マクフェイル、そしてはつらつとした右サイドハーフのボビー・エバンスは、コーラス隊を従えた脚光を浴びるパフォーマーだった。

 

彼らは自分の信念を刷新してスターの側に立った。

確かに、この後の2年間は、誰でも機械的に滑らかに言える、エバンス、ステイン、ピーコックの3人がハーフバックのポジションに名を連ね続けた。それはあたかも、必要な時にだけ問い合わせる有名な法律事務所のようだった。

彼らのコンビネーションは実質的に離れられなくなるほどであった。

事実、他の二人に挟まれたステインは同様や緊張がなく落ち着いて自身が使えることをさらにカモフラージュさせた。
常に、彼を満足しているほどんど目立たない仕事は、確かにに彼の同僚から尊敬を得ていた。

とりわけステインはドレッシングルームだけではなく、ボードルームにおいてでも指揮するようになった。それは外部からステインをパークヘッド(セルティックパーク)に連れてきて後ろ盾になったことは200倍の掛け率で勝利したように感じ始めているチェアマンのボブ・ケリーがいるからでもあった。

ケリーはブランタイアの出身で、ステインが育った生家からは短い散歩で行けるぐらい近かった。実質的に同じ教区から出た”地の塩”の男(=健全な人々という意味)どうしの親密さは、ステインのチェアマンに対する明確な服従があるにもかかわらず、互いに気軽に接していたことを意味した。

そしてとても明らかなことに、彼の選手たちは元々炭鉱夫であったし、そしてケリー自身も炭鉱のコミュニティを愛していることから、大勢のセルティックへのサポートを結びつけ、彼の影響力の近くにステインを加える理由となった。

彼らは互いに同じ郷土の言葉を使ってくだらないこともざっくばらんに話すことを好んだ。
二人ともストレートで、相手を打ち砕くようなことを無遠慮な話し方で伝え、しかも鋭い視点で、怖がらせた。

チェアマンとステインの間にある相互への尊敬は、ますます関係を強固なものにした。なぜなら、ステインは単なるセルティックで雇われた一選手というだけではなく、即座に、クラブとサポーターを愛するようになっていたからだった。

その後再び、ステインはチェアマンとの付き合い方を覚えた。

その頃チームメートのボビー・コリンズはステインについての結論に達するために野生動物学の生徒になる必要はなかった。”大きな狐のステインが、森の中に(ボードルーム)入っていくと、他のすべての狐が逃げ出してしまうんだ。”

ステインはスコットランドフットボールにおいて他に真似できない、のちにはパートナーシップにつながる協力基盤を敷設していた。

ステインとケリー、狐とライオン(動物のたとえについてはなぜ狐とライオンなのかは調べがつきませんでした)は、明らかに、利権を得るために協力してうまく立ち回った。

彼らは、確かに両方共レンジャーズを求めようとした時は、飢えを分け合った。(レンジャーズ相手に負けた時は、二人とも非難を受け入れた)

ステインの最初のオールドファームの試合で、レンジャーズが10人であってもプレイする屈辱に苦しんでいて、結局1-4で負けた。ただそれ自体は当時レンジャーズがリーグを支配している時代を反映したものだった。

しかし、コロネーションカップ優勝で、セルティックに自信が芽生え始め、1953年の9月19日、敵地アイブロックスで行われた試合では、もっと毅然と勇敢に戦い、1-1の引き分けに持ち込んだ。

この試合は豪雨の中で行われ、スタンドのハーフタイムには警官がレンジャーズエンドに立ち入り、ファンが掲げるユニオンジャックを降ろしたとしても、スタンドを埋め尽くした観客の好戦的な傾向を弱めることには役立たず、暴動が起こるのは確実だった。

暴動はピッチにいる警棒を持った騎馬警官たちが出動したので、騒ぎは収まった。

ステインは、これらのハードな試合で生き残るためには、たとえどんなにハードにプレイしても、イライラして、自制心を失わないために、神経を集中させる必要があると学んだ。

しかし誰よりもステインほどレンジャーズを倒したいと執念を燃やすものはいなかった。しかもそれはごく個人的な理由からでもあった。

その最大の理由はなんといっても彼の父親だった。

1982年のワールドカップで対戦予定のソ連代表の視察のためにアテネで行われるギリシャ 対 ソ連の親善試合を見に行く旅行の時、我々はホテルで座ってオールドファームについての雑談をしていた。

”いいかい”とステインは話した。

”俺がレンジャーズとの試合になると、その時近くにいたら、母親は決まって”「頑張って、いい試合をしてね、あなたが勝つことを願ってるわ」と言ってくれた。でも父親は決してしなかった。

父親は俺がレンジャーズと試合をする時は、俺の幸運を決して願わなかったよ。彼は決して自分自身をそう(レンジャーズを裏切る)させることができなかったんだ。”

ステインの父親が、本当にステインが負けるのを望んでいたかどうか彼に尋ねた時、ステインは、まるで何かを強調するかのような明確な作り笑顔を隠すために爪を噛みそうになるぐらい手を口に当てた。
そして、ほとんど物欲しげな感じを漂わせながら、「そうだな」と答えた。

だから、チームの他の誰とも違い、彼は緑と白の横縞を着る時はいつも、彼の個人的な一人の観客に向かって自分のプレイを認めさせようとしていたのであった。

ただ、この動機は1954年の元旦、セルティックパークで明確に作用した。

この試合では、53,000人の観客が集まった試合で後半15分のモーカンのゴールで1-0とレンジャーズに勝利した。

重要なことは、元旦に行われた試合でセルティックが勝利したのは1938年以来で、全天候型の白い新試合球がオールドファームで採用され、伝統的な革の水がしみこんで重くなったボールを好んでいたレンジャーズの屈強な力のある選手たちからは不評を買っていた。

より、スキルフルなプレイスタイルを好み、軽いボールに順応したセルティックは、古いライバルから勝利を得ただけではなく、リーグをもっと健全な方向へ押し戻した。(一強時代に終焉を打った)
その2に続く。