Hail Hail

 

第5章 栄光の年 (原題:Crowning Year) その5

 

ハイバーニアンは、輝かしいチェアマンの役職を持つハリー・スワンの元、大陸を広大に回って、ヨーロッパのスキルのニュアンスを吸収し、リーグを席巻したチームと同じチームだった。

当時のハイバーニアンは、招待されたヨーロピアンカップ(現在のチャンピオンズリーグの前のチャンピオンズカップのプレ大会、第1回大会は1955年から)にスコットランド初代代表として出場して準決勝まで進み、1952年の9月に行われたテスティモニアルマッチ(記念試合)ではマンチェスターユナイテッド相手に7ゴールを挙げて粉砕していた。

ステインは決勝で、当時、スコットランド代表がアイスランドとイングランド相手に戦った試合で、試合終了直前に同点ゴールをあげたことでメディアから、”ラストミニッツ ライリー”と好んで呼ばれるようになった選手と相対峙した。

ライリーの周りを固めるのは、彼と同等の素晴らしいドリブルスキルを持つ選手や、特に左足から強烈なシュートを放つエディ・ターンブルのような錚々たる面子がいた。

この恐るべき攻撃ユニットを持つチームは戦後3回のリーグ優勝を獲得していたが、その頃、レンジャーズは、”鉄のカーテン”と称される、ディフェンシブなスタイルと、ステインが生涯にわたって一番のお気に入りのスコットランド人選手だったジョージ・ヤングからのロングボールでの縦ポンサッカーで、その地位を定期的に脅かしていた。

苦悶していた要素として、セルティックは、この時、単なる彼らの傍観者でしかなかった。

今、セルティックの選手たちは、広く魅了し、尊敬を集めるフットボールスタイルを持つクラブと相まみえることになった。ハイバーニアンのプレイスタイルがどんなに羨望的であろうとも、ステイン率いるセルティックは最も基本的な目的を再発見することを欲していた。それは勝つことである。

バーティ・ピーコックは、”いいかい、見渡す限りとんでもない数のセルティックサポーターが目に飛び込んできたんだ。(この日の観客数、117,060人)彼らの一日を無駄に、悲しませることなんてしたくなかった。俺を突き動かす何かがもしあるとしたら、それは”負けることへの恐怖”でしかなかった。

この大観衆は本当に選手を勇気付けたし、選手全員を間違いなく感動させたんだ。

あらゆる手段でファンがやってきて、そして負けてしまう。こんなことは考えられなかったよ。”

負けることは心の中に微塵も存在しなかったステインは、セルティックの先制ゴールをもたらす一連の流れに加担し、キャリアを通じて、勝者が立てる壇上に関わりを持ち始めるきっかけとなった。

前半30分のほとんどをステインはシンプルかつ正確なクリアボールを、怪我による欠場で出れないチャーリー・トゥリーに代わって出場した、ウィリー・ファーニーに送り続けた。ファーニーは、次々とボールを新加入選手のニール・モーカンに通して行った。

モーカンの右足は、ただ立っているためのだけに生えていると思われたが、その右足で25ヤード離れたところからシュートをネットに叩き込んだ。このシュートは、時間の経過とともに(言われていた)距離が増えていったうちの一つだった。(人々がこのシュートのことを話すとどんどん大げさになっていたことを表す)そして今でもその頃少年だった時に目撃した大人たちによってさらに誇張されていっている。

でもそんなことは本当の問題ではなかった。伝説的な瞬間が創造性に富んだ新人(モーカン)に訪れた。

実際、セルティックサポーターに熱い気持ちで、代々に脈々と受け継がれている、特筆すべき重要なゴールのうちの一つで、ステインはこのゴールの重要性をこう特定した。それは、セルティックパークのボードルームに飾られている、コロネーションカップのトロフィーを手にして、”これが、(ニール)モーカン カップだよ。”と訪問客に見せたことでもあった。

ステイン自身は、試合を通して、取り立てて普通の地味なプレイに徹した。重要なのは、相対していたロウリー・ライリーをおとなしくさせておくことだった。

グラスゴーヘラルド紙のシリル・ホーンによると、”ステインはライリーに、自分は救世主だと証明するわずかなチャンスすらも与えなかった。”

ステインの後ろには、セルティックのサポーターからもそれほど支持されていないゴールキーパーのジョン・ボナーが立っていた。

ただその試合では、ボナーは、”機会が人を育てる”という古い格言の通りのことを証明して見せた。

ボナーは、ヒブスがセルティックに放つ最高のシュートを抑えることを選んだ。

ヒブスの右FWにいたゴードン・スミスは、ゴールキーパーとしては平均より低い身長のボナーの弱点をつき、クロスの掃射によって揺さぶりをかけようとしていたし、さらにその上、後半になるとヒブスが双方のファンを極限までドキドキさせるような波状攻撃をセルティックの守備に浴びせかけたが、ボナーはこれらを防いだ。

後半終了まで残り4分で、1点ビハインドだったヒブスは、あたかも同点に追いつきそうだった。

エジンバライブニングニュースの担当記者が伝えたところによると、”ターンブルのクロスボールは、パーフェクトな角度で入り、そこにジョンストンがジャンプして矢のようなヘディングシュートをゴールへ向けて放った。

ほぼ試合終了間際の同点ゴールがほとんど決まりかけたところ、間一髪のところでボナーがはじき出し、ボールはバーの上へと外れてしまった。

この試合最高についていなかったハイバーニアンのFWジョンストンは、あたかも言い訳するかのように、絶望して両腕を投げ出し、チームがコーナーキックを与えられたときに、彼はあまりにも失望していたので、ゴールキーパーを後ろに背負ってポジション取りを妨害することを行わなかった。

セルティックはコーナーキックの攻撃も守りきり、ボビー・コリンズからのパスでジミー・ウォルシュがアディショナルタイムを使い切った。

試合はセルティックが勝利し、コロネーションカップを獲得した。

のちになって、ハイバーニアンのウィリー・オーモンドは、試合終了後には素直に握手をしたのだが、その他大勢に(セルティック)負けたことを潔く認めることができなかった。

彼は、ある時インタビューにこう答えていた。”セルティックのチームはお粗末な集団だった”
そして、”1953年は、ボナーが台無しにしてカップを得られなかった”と言って、彼のチームを嘆き悲しんだ。

ステインの残りの選手生活は、山あり谷ありであったが、この試合は彼の進歩にとって平凡なものから最上のものになっていく一試合となった。

彼がコロネーションカップを受け取る階段を上った時、未だに残っていたセルティック内の伝統主義者の中でも彼の価値について疑うという考えは一掃された。

ステインの最後の背教行為は、この時、成し遂げられた。

”バーンバンクの青っ鼻(プロテスタント)は、セルティックの勝利者となった。”

 

第6章へ続く。