Hail Hail
第2章 暗闇からの蜂起(原題:Rising from the Dark) その1
解説:スコットランドのフットボールで、特にオールドファームについてよく語られるのが、レンジャーズ:資本家層、富裕層のチームで、サポーターも中流階級が多い、セルティック:労働者のチーム、鉱山や造船の下働きで生業にして低所得者層が多い、などと言われてることもありますが、一部は当たりで一部は大きく外れています。確かにレンジャーズは設立当時スコットランドを象徴するクラブで、つい最近までプロテスタントの選手しか入れないほど、保守的な存在でしたが、支持層は大きく異なります。産業革命以降、グラスゴーのある西スコットランドは、鉱業、工業、産業、の中心地で、そこに住み着いたのは、多くがどちらの宗派とも労働者階級の単純労働者でした。
彼らのチームへのサポートが宗教の代理戦争のごとくプロテスタント=レンジャーズ、カソリック=セルティックと、地域、コミュニティを分断していたことを表しています。ジョック・ステインもそんな貧しい、鉱山の街バーンバンクでプロテスタントの鉱山労働者家族の息子として生を受けました。
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休憩中に限って彼の食べるものとネズミたちへの餌の間で、ネズミたちは主演だった。
16歳のジョック・ステインは、真面目で鉱山の仕事に満足していた。
彼の前に地下の鉱道へ入って行く父親や他の家族のメンバーと同様、彼が鉱員として働くことは避けらないさだめだった。それが自然なことだったし、誰も他の考えを持たなかった。
彼の故郷のバーンバンクは鉱山なしに存在することは叶わなかった。北ラナークシャー全体がスコットランドの工業化のるつぼの一部だった。
しかし、地下、1,000フィートも下で働く彼らは自分たちを産業の原動力の潤滑油として立派に歯車として働いている重要な存在だとは認識していなかった。彼らの主な目的は賃金を稼いで生き残ることだった。
DHローレンスの小説、Sons and Lovers に出てくるウォルター・モーレルは、鉱員の存在を2つの短い文章でうまく言い表した。
”慣れることだ。 ネズミのように生き、夜になってからどうなっているのか穴から出てくるんだ”
とても簡潔なこの表現は生活のために稼ぐ方法を暗闇から明るい日の光のもとに変えなければならないと決心するぐらい、人生を形成する時期の青年だったステインにものすごく伝わった。
ステインは1922年の10月5日、間も無く夕方の6時になる頃にバーンバンクのグラスゴーロード、339番地で父ジョージ、母ジェーンのたった一人の息子として生まれた。
彼の生家は新建築物を立てるために取り壊されもう存在していない。
ステインの子供時代、アグネスジャック(スコットランドの有名人らしいが詳細不明)が同じ並びに住んでいた。
”私たちは子供時代長い間近所だったのよ”と彼女は1965年スコティッシュデイリーエキスプレス紙でインタビューに答えていた。
”ジョン(ジョックのファーストネーム、ジョックは愛称)は、くせっ毛頭の少年だったわ。そして12歳ぐらいで父親に習って炭鉱で働きだした時、引っ越していったの。少年たちに他にやることはなかったんだもの。彼らは大変だったわ。覚えてるのは、落ち込んでいたことと貧困者向けのスープ給仕所よ。さらに彼のお母さんは2人の娘を火事と10代の頃に亡くしてるのよ”
この物悲しい写真は際立って、ステインが通っていた学校が、彼が交友関係を作った場所というだけではなく、彼は私生活では社交的だったのだが、彼が好んでいたボールを蹴ること(フットボール)ができてとても満足していたことに学校が大きく関わっていたことを表していた。
彼は最初、グレンリー小学校、この一帯は土地質が頻繁に思い出されるが、地下に坑道があるせいで支柱によって支えられ、やがては移転の必要性に迫られ1964年に近代的な学校に建て替えられた、に通っていた。
12歳の時ステインは2年間グリーンフィールドスクールに転校したが、そこはかしこいとは言えない生徒たちが通っていた。
しかし実際は、たとえどんな状況にあろうとも勉強の才能があるならそれを花開かすという神話のような話がスコットランドの教区の周りに存続し続けたとしても、今はもちろん存続しているのだが、労働者階級の生徒が学問的に彼らの本当の可能性が満たされることがほとんどない中で、彼が状況を打破することは難しかった。
ステインは彼の監督としてのピークの時に、機敏な判断、議論の快活さ、そして広い一般知識に対する見識を示していたが、それは”The Scotsman”(スコットランドの新聞)の故ジョン・ラファティが一度話してくれたのだが、”ステインはどんな話題でも太陽の下で会話してくれるだろう”
これらの学校のうちのどれかの教室に座っていることが、たとえ全く違った進み方だとしても知的な子供に適切な機敏さを持たせられたかもしれない、という印象に達するのはとても魅力的だった。(ものすごい比喩で、ステインと会話することが、非常にためになる機会だということを示しているのかも、これ以上の解読はちょっと難しい)
ステイン時代最も成功したフルバックだったジム・クレイグはとても率直に話した。
”自分の歯医者はSFA(スコットランドフットボール協会)のオフィスの近くだった。彼がスコットランド代表の監督だった時、よくオフィスに行って彼といろんな話をしたんだ。フットボールのことだけじゃなく人生の一般的なことまでね。
ほんのすこしだけ刺激的な話なんだけど、ステインは一般的な教育を受けていなかったんだ。彼は相当知的な人なんだけどね。
彼は大学の学位課程をパスしていたようだ。 しかし、1930年代に生活が不平等だったため彼が賢くても高等教育を受けるシステムに進むことは困難だった。
グリーンフィールド学校にいた時、彼のフットボールを教える先生はジョン・ギブソンといったが、彼の試合への意欲をとても増大させ、ステインが有名になった後でも彼を夢想的にならせなかった。
ギブソンの元生徒がのちに達成したことを称賛したとともに、ギブソンは彼のチームへの努力が献身的なのを思い出した。
彼はプレイだけじゃなくステインにどう人のマネージメントをする秘訣さえも与えていたのかもしれない。
”自分がかつてそうだったようにジョン(クラーク)は今そうだ” ステインは1965年にセルティックで彼にとって初めての遠征でスコティッシュカップを優勝し、その後暫定のスコットランド代表監督をしていた。
”私は無慈悲だった。 たとえ出場した選手が好調じゃなかったとしても、自分のチームにベストの選手を選んでいた。
ジョンは左のハーフをチームではプレイしていたが、彼は一番傑出した選手からはかけ離れていた。しかし、彼はひょろっとしているが、十分な選手だった。彼がポジションを取るなんて考えもしなかったんだ。”
その2へ続く。