Hail Hail
第1章 太陽の地(原題:A Place in the Sun) その1
「おいお前、太陽の外へ出ろ!」
ポルトガルのリスボン近郊、エストリルにあるパラシオホテルの壮麗なシミひとつない大理石のインテリアにライフルの弾丸のように声が突き刺さった。
ジョックステインの「オイ!お前!」は、足をふにゃふにゃにさせ、道路の交通をストップさせ、ビルに佇むホシムクドリを追い払い、呼ばれた本人をあたかも、自分の創造主の前に呼び出されたような恐ろしい気分にさせた。
単純な言葉による声の指示は彼の選手に対してだけではなく、メディアのメンバーにとっても対しても非常に効果的で、ステインの速射砲のような口撃は、人生において最も記憶に残るものの一つに数えられるほどだった。
しかしながら、このケースにおいては、控えのゴールキーパー、ジョン・ファロンに向けられたものだった。
現在、5月のポルトガルにいて太陽の光から逃れられることは難しかった。真っ先にポルトガルが選ばれる理由が降り注ぐ太陽だった。
天から降り注ぐ光と熱に特に嫌がることはヨーロッパのほとんどから数ヶ月前まで単に想像上の虚構と目されていたチャンピオンズカップを獲得するためのステインの執念的な取り組みの中で彼の逆鱗に触れてしまうのだ。
ステイン対海岸沿いの太陽、は単純に1967年5月に行われる(決勝の)ステイン対エレラ(エレニオ エレラ、インテルの黄金時代を築き、カテナチオを発明した当時インテル監督)の前哨戦のようだった。
メディアではあたかも空に浮かぶ玉(インテル)は倒せないかのように書き立てたが、しかしステインは不可能と言われることを引き受けていた。
選手たちは日焼けを不忠実な聖痕のように(いまわしきもののように)扱っていた。
ステインの命令で選手たちは日向にい続けさせられていた。それはあたかもライフルで標的にされたようだった。
太陽は活力を奪うことを意味した。そのことで、セルティック監督は彼らがここにきた目的=チャンピオンズカップを獲得すること、から気を散らしてしまい、すべてがバラバラに解けてしまうことを恐れていた。
監督は、わずかに困惑してるように見えつつも反り返って立っていたジョンファロンに近づいた。確かに彼は外にいなかったが、窓の近くにいたため太陽の日差しは彼に当たっていた。
彼は迅速に物陰に移動した。「前にも行ったけど、”日向に入るなよ”、いいな」と、あたかも室内装飾が彼をそうさせたかのようにステインは笑わず、リラックスとは正反対にこわばった顔で私たちから離れる前に付け加えた。
彼は上にホテルレセプションにもたつき、そして、彼が廊下の先に立ち去る前に数分間、ドアステップに現れた何人かのポルトガル人ジャーナリスト、および彼が辛抱強く付き合っている人たちと相談を行った。あたかも 他の誰かに重大な仕事を自覚させるかのように。
もちろん、チームの準備3日間のために彼が選んだ場所とホテルは、ほんの3時間だけで、滞在するこの場所がもたらす喜びに対して警戒心を落とし、選手の無気力さを引き起こしたかもしれない 。
決戦の地リスボンから30分ほど離れたところにあるパラシオホテルは、遊歩道のすぐ向こう側にショッピングセンターを有し、ほんの100ヤード離れて海があり、旅行の日程期間中雲ひとつなく、広々として、そこらじゅうキラキラ反射した晴天の中で行われた。
エスター・ウィリアムズ(アメリカの映画女優)のためのバズビー・バークリーにより建設されたプールが、建物内にあった。
ホテルのインテリア周りには熱帯を模したの庭園があり、白いディナー ジャケットを着て手にジントニックやドンペリニヨンとを持って散歩しているそれなりの身なりの人たちがいた。
ホテルを建築した1930 年代に、ホテルの前庭は、時折今はフットボールクラブのチームバスが難しくさせているが、マークスとロールスロイスのために豪華なイスパノ スイアス(ワインの銘柄) が、正面玄関に至るまで満たされていた。
以上のことから、簡単にここはフットボールの試合準備のためのものではなく無茶苦茶なわがままを満たすためのホテルであることがお分かりになるだろう。そこは上品に輝いていた。
それでもまだ、彼らはそこにいる理由があった。 それは贅沢をすることではなく、彼らへのステータスのためだった。
ステインは、たとえどんなチームでも、相手チームの才能を恐れてというよりもむしろ、彼のプレーヤーに自分たちの才能を思い出させる必要性を吹き込んでいた。
ステップ1は、王侯のようにホテルに泊まることであった。その中でステインは、(確かにチームの中で少なくとも1人2人はそこまでの段階にはいないが)粗野で浪費する習慣に苦しまなかった選手ではなく、あたかも人間以下のようなのにもかかわらず、取りかこむものによって誘惑されて自分の戒めを破る選手を管理する仕事を自身に課した。
それでも、ジョン・ファロンは私に暗にほのめかした。”監督はあなたをどやしつけるだろうよ”
ステインに背くことは、リスキーなことだ。
クライド湾から吹き込む寒風やエアシャー沿岸のシーミルハイドロホテル、そして太陽にさらされることの危険より低体温に対しての対処の方が慣れている西スコットランド若者のグループ(セルティックの選手)は、快楽主義者のためのこのエレガントな場所の中にいる。
彼らは1967年の5月23日火曜日の午後リスボン空港からバスで到着した。
その後ツインルームの部屋にそれぞれチェックインし、荷物を置いた後、トレイナーのニール・モーカン、(元セルティックの選手で現役時代ハンプデンパークで行われたセルティックがレンジャーズ相手に最多得失点差の7-1で勝利した1958年のリーグカップ決勝で2得点を決めた、ジョックステイン時代のトレイナー、)と一緒に30分ほど散歩をし、戻ってきた後単調な生活を送る侯爵未亡人と同じくらい礼儀正しく紅茶とトーストをいただいた。
最初の軽いトレーニングの後、プールの時間が30分ほど許された。 厳格にキッチリ30分だったが。
その後彼らは室内から、彼らがトランプのブリッジを厳しく精通し始めた学校の場所、デッキエリアに追い立てられた。
キャプテンのビリー・マクニールはカードゲームの時間は選手にとって非常にいいセラピーだと信じている。
”我々は負け下手なチームなんだ。 ” と続けた。”何事にも負けることが大嫌いなんだ。だからカードゲームにおいても同様なんだ。これが我々を奮い立たせるんだよ。プレイするたびに口論し、論争し、腹をたてる。単に負けず嫌いなんだ、時には攻撃的で生意気で傲慢になるんだ。ジョック(ステイン)そういうのが好きなんだ。
この感じこそ彼が望んでいる我々をお互いに流血させるぐらい沸騰させることなんだ。
そこで我々は座って静けさをぶち破るから、ホテルのスタッフが何が起こっているのか!と驚くんだ。
私の言っていることを大袈裟だと思わないでくれよ。全ては試合への準備のためなんだ。
カードで遊ぶことは勝つことでも負けることでもある。で、言った通り誰も負けず嫌いなんだ。”
その2へ続く。